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後漢

中国の王朝。劉秀が漢王朝を復活させ、1~2世紀に全盛となる。

25年、王莽に一時帝位を奪われた漢王朝は、その一族の劉秀が赤眉の乱を鎮定して帝位につき、復興させた。これ以降を後漢という。都は長安から東方の洛陽に遷された。1世紀から2世紀初めにかけ、国力を安定させ、匈奴や西域諸国を服属させ、かつての漢の栄華を取り戻した。

ローマとの交渉

 この時期は地中海世界ではローマ帝国が繁栄した時代であり、後漢が西域に派遣した班超の部下の甘英パルティアを経て地中海まで到達したとも言われ、また日南(ベトナム)に来航して洛陽に入貢した使節を送ったという大秦王安敦はローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスであると考えられている。

倭人の遣使

 『後漢書』東夷伝倭人条に57年、倭の奴国王が光武帝に使いを送って朝貢し、印綬を授けられたという記事がある。倭人は中国の歴史書に現れる日本のこと。この奴国は北九州にあった国の一つであろうとされ、そのときの印綬が、志賀島で発見された「金印」であろうと考えられている。当時、弥生時代の中期にあたり、小国家の統合が進んでおり、その中の有力な国の一つが奴国であったものと思われる。また、107年の安帝の時には、倭国王帥升が、生口(奴隷か)160人などを朝貢している(同じく『後漢書』)。また2世紀の後半の桓帝・霊帝のころには「倭国大乱」となったと『後漢書』は伝えている。次の3世紀の三国時代に邪馬台国が登場する。

後漢の衰退

 後漢を衰退に向かわせたのは、外戚宦官であった。桓帝、霊帝の代になると、彼らが実権を奪い、それぞれ私利私欲に走り権力闘争を繰り返していた。中央の政治でははじめは外戚の発言力が強く、皇帝が代わるごとに違った外戚が政治に介入した。それに不満な皇帝は、側近の宦官を頼るようになり、外戚と宦官の対立が深刻となった。また、官吏は儒教の学徒が多かったが、かれらも宦官を排除しようとしてかえって「党錮の禁」によって弾圧され、政治は安定しなかった。また後漢時代の社会では、前代からの豪族の進出がさらに進み、一方で貧民化した農民が多く、社会不安が強まり、太平道などの新興宗教が起こり、それに農民反乱が結びついて黄巾の乱が起こると後漢はそれを抑えることが出来ず、各地の豪族勢力を糾合した魏・呉・蜀が勃興し、後漢は220年に魏の曹丕に滅ぼされた。→後漢の滅亡 
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ノートの参照
第2章3節 キ.漢代の政治