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王莽

前漢の外戚として有力となり、皇帝位を奪って後8年に新王朝をたてた。その復古的な政治は豪族、民衆の不満を強め赤眉の乱などの反乱が起き、23年に殺された。

 おうもう。漢帝国の第十一代元帝の皇后王氏の一族であった王莽は、次の成帝の外戚となって実権を握った。前1年、哀帝の死後、幼少の平帝を擁立して皇位簒奪をはかり、ついに平帝を毒殺し、8年、皇帝となり「」王朝を建てた。
 王莽の新王朝は周代を理想とする復古的な姿勢をとり、井田制を復活させて豪族の大土地所有を制限しようとするなど、積極的な改革の面もあったが、新貨幣を二十八種類も鋳造(王莽の時発行された貨泉という銅銭は日本でも発掘されている)するなど実情に合わない法を乱発して政治・経済が混乱した。まず18年に農民反乱である赤眉の乱が起こり、さらに豪族の離反が続き、漢王室の流れをくむ劉秀などの豪族が挙兵し、抗しきれずに23年長安で自殺した。劉秀は25年、光武帝として即位して漢王朝を復興し、後漢とした。

外戚王氏の進出

 前33年、元帝が亡くなり息子の成帝が即位したが、ダンサーあがりの美女を皇后に据え、さらにその妹に心を移すなど、淫蕩にして無能な放蕩天子だった。皇帝が遊びほうけている間に、母の元太后の兄弟の王氏一族が次々と朝廷の要職を独占していった。王鳳が大司馬・大将軍になったのを筆頭に、8人の兄弟の内、5人が同じ日に侯に任じられ「五侯」といわれた。

Episode 「蓬髪垢面」の王莽

 王氏一族のなかで王莽だけはその父が若死にしたため、日の当たらない場所にいた。華やかな日々を送る従兄弟たちを横目で見ながら、王莽はその逆を行き、儒教を徹底的に学び、また礼教の規範を実生活でも守り、聖人君子のポーズを取った。伯父の王鳳が重病になるとその枕元に駆けつけた王莽は、数ヶ月の間不眠不休で「蓬髪垢面」つまり髪はパサパサ、顔はアカまみれになって看病に当たった。恩にきた王鳳が成帝と元皇后に王莽のことを頼んでくれたので24歳で黄門郎に任命された。これが出世の糸口だった。その後も清廉潔白な姿勢をとり続け、ついには宰相にまでなった。あるときは不正を働いた息子を自ら処刑の命令を出すなど、正義感のある人物として信頼を勝ち取っていった。

王莽の即位まで

 後2年、王莽の14歳の娘が11歳の漢の平帝の皇后となった。王莽は外戚となったわけである。王莽は古文派の儒学者をブレーンに据え、王位を簒奪することを計画、さまざまな手段をとった。前4年には「宰衡」という官位についたが、それは殷王朝の湯王を補佐した伊尹の官職「阿衡」と、周王朝の成王を補佐した周公旦の官位をミックスしてデッチ上げたものだった。翌年には臣下としては最高の栄誉である「九錫(しゃく)」(天子が功績のある臣下に贈る馬車や弓矢などの九品)を受けた。まもなく平帝が死去したが、このタイミングのいい死は王莽が一服盛ったものだった。
 平帝を毒殺しておきながら、手続きにこだわる王莽はもう一芝居打つ。帝位は空けたまま宣帝の玄孫のまだ二歳の儒子嬰を太子に立て、自分は仮皇帝(摂皇帝)となった。王莽が名実ともに皇帝となるのはさらに3年後の後8年、オカルト的な仕掛けを用いて即位を正当化し、叔母の王皇后が保管していた玉璽(ぎょくじ。秦から漢に受けつがれた皇帝の印鑑)を強引に奪い取り、実現させた。儀式の最中、王莽は幼い儒子嬰の手をとり、すすり泣きながら「天帝の命令にはさからえない」と嘆いて見せた。<井波律子『裏切り者の中国史』1997 講談社選書メチエ p.79-88>

Episode 王莽と讖緯説

 前漢の終わり頃、讖緯説という不思議な予言が流行した。古来の陰陽五行説に儒教的な要素を加え、何事も天の意志をおみくじのようなもので占うことができる、という俗信である。その讖緯説を最大限利用したのが王莽であった。あるとき井戸の中から「王莽を皇帝と為せ」と朱書された石が出てきたり、漢の高祖廟から「王莽は真天子である」と記された銅箱が見つかるなどの現象が続いたのを、天の符命であるとして王莽は皇帝となったのだが、もとよりこれらは工作したことであった。それを仕組んだ人間は真相がバレるのをおそれた王莽によって殺されたという。もっとも、このような話は王莽を倒しして建国した後漢の時に編纂された『漢書』に書かれていることなので、割引して考えなければならない。

王莽の文化的簒奪

 王莽の帝位簒奪とは、何だったのか、次のような説明がわかりやすい。
(引用)外戚王莽の権力奪取・漢王朝簒奪は、せんじつめれば、品行方正・人格高潔の君子を装いつづけて獲得した、絶大な名声をバックに、ブレーンの古文派の儒者と一致協力し、周公旦もどきの表看板をかかげ、当時、一世を風靡したオカルト志向を巧みに利用しながら、着々と自己権力を強化することによって、成し遂げられた。それは、軍事力をいっさい行使しない、いたって「文化的」な文脈による簒奪であった。こんな簒奪者は長い中国の歴史においても、他に類を見ない。軍事力こそ行使しなかったものの、平帝を毒殺したのをはじめ、この王莽の「文化的」な簒奪が、おびただしい血の生け贄によって隠蔽されていることは、紛れもない事実ではあるが。<井波律子『裏切り者の中国史』1997 講談社選書メチエ p.90>

Episode 迷信ボケの末期症状

 王莽は赤眉の乱が起こると、反乱を鎮めるためと称して「威斗」を鋳造させた。威斗とは五種類の鉱石と銅で作られたマジナイ用の道具で、ヒシャクのような形をし、これに向かって呪文をとなえれば、たちどころに反乱軍が退散するというしろもので、王莽はいつも護衛官にこれを背負わせ、自分の側から離れないようにさせたという。迷信ボケの末期症状というしかない。<井波律子 同上書 p.92>

王莽の死

 23年、赤眉の乱と劉氏一族の豪族反乱が合流して力を増す一方、王莽のブレーンであった古文派の儒学者劉歆(りゅうきん)が反旗を翻した。劉歆ら重臣の反乱は事前に発覚して失敗したが、もはや王莽は裸の王様と化し、同年10月、まず劉氏一族の劉玄の率いる豪族軍が長安に入り、威斗を後生大事に抱えて逃げ惑った王莽はついに捕らえられて、なます切りに切り刻まれて無残な最期を遂げた。王莽は69歳、新王朝は15歳で滅び去った。<井波律子 同上書 p.94-95>
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第2章3節 キ.漢代の政治
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井波律子
『裏切り者の中国史』
1997 講談社選書メチエ