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オルホン碑文

突厥文字で記された、東突厥が立てモンゴル高原で発見された碑文。

 オルホン碑文は19世紀末にモンゴル高原北部、バイカル湖に注ぐオルホン河畔で発見され、存在が知られるようになり、1893年にデンマークのトムセンによって解読された。内容は730年代に唐の玄宗東突厥のビルゲ可汗などの業績を称えて送った文を突厥文字で記したものであった。これを契機に突厥文字の解読が進み、中央アジアにおけるトルコ系民族の活動の様子が明らかになってきた。

Episode オルホン碑文の発見と突厥文字の解読

 オルホン碑文を発見して世界を驚かせたのは1890年、フィンランド人のヘイケルという言語学者だった。なぜフィンランド人がモンゴル高原まで出かけたのか。当時、フィンランドは帝政ロシアの支配を受けていた。民族の独立を願うフィンランド人にとって、民族のルーツがどこにあるのかという問は切実なものがあった。シベリウスが『フィンランディア』を作曲したのもそのような民族意識に根ざしていた。フィン人ウラル語族に属し、ウラル語族はアルタイ語族と近親関係があると考えられ、トルコ語やモンゴル語はアルタイ語に属している。そこでフィンランドの学者は熱心にトルコ語やモンゴル語の原型を探ろうとしていたのだった。ヘイケルは謎めいた文字が彫られた三つの石碑をオルホン河畔で発見し拓本をヘルシンキに持ち帰ったが解読には至らず、発表された資料を利用して解読に成功したのは、1893年、フィンランドと関係の深いデンマークの学者トムセンだった。それは8世紀の突厥帝国の可汗たちを顕彰するもので、ソグド文字に由来するルーン文字で記された、トルコ系民族の使用したもっとも古い文字であることが判明した。<坂本勉『トルコ民族の世界史』2006 慶応義塾大学出版会 p.22-26 による>
※ただし、現在の言語学では、「ウラル=アルタイ語」と一つの語族とする分類は否定されている。

出題

2004年 京都大学 730年代にオルホン河畔に立てられた碑文は突厥の復興を称揚したものである。この碑文を書き送った、当時の中国の皇帝は誰か。

解答

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書籍案内

坂本勉
『トルコ民族の世界史』
2006 慶応義塾大学出版会