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東突厥

583年、突厥が分裂した後、モンゴル高原を支配。唐の建国を支援したが、後に対立し、630年に服属。682年に再興され、8世紀初めに突厥文字をつくるなど栄えたが、744年にウイグルに滅ぼされた。

 突厥に圧迫されて583年に分裂した後、ウチュケン山とオルホン川流域に拠ってモンゴル草原を支配したのが東突厥。一方の西突厥は西方のトルキスタンに移動した。東突厥は一時強大となり、の建国期にはそれを援助し、李淵は隋と戦う上で突厥の騎兵の力を借りた。
 唐が中国支配に成功し、強大な力を持つようになるにしたがって東突厥は抵抗するようになったが、頡利可汗のとき、630年に唐の太宗の征討を受けていったん滅亡した。ここまでを突厥第一王朝という。
 このとき、唐の突厥攻撃を援助した同じトルコ系の鉄勒部族は、太宗に北方民族の支配者を意味する天可汗の称号を贈った。その後、唐は内モンゴルに単于都護府を置いて、羈縻政策のもとで東突厥などの北方遊牧民を統治した。
 東突厥滅亡後、その遺民は唐の高句麗遠征や西域遠征に兵力として駆り出され、次第に不満を持つようになり、たびたび唐に対する反乱を起こすようになった。その間、西域から唐にかけて活動するソグド人との関係も深くなっていった。

東突厥の再興(第二帝国)

 唐が内モンゴルにおいた単于都護府の支配下にあった東突厥は、682年、クトゥルグが唐に対する反乱を成功させて独立し、突厥帝国を再興した。これを突厥第二帝国とも言う。翌683年には唐の単于都護府を攻撃し、陥落させた。しかし、則天武后の時に唐と和議を結び、その後、玄宗のころ、ビルゲ可汗(在位716~734年)は東の契丹や、党項(タングート)などと戦って有力となった。
突厥文字  唐と結んでその勢力を拡大した突厥第二帝国のビルゲ可汗などの功績を称えた石碑がモンゴル高原に残されている。その石碑には突厥文字の彫られており、これらはオルホン碑文と云われて北アジア民族が自分の文字で残した最古の記録である。

ウイグルに滅ぼされる

 しかし再び内紛が激しくなってカルルク(後にカラ=ハン朝を建国)やウイグルなどの他のトルコ系遊牧民が台頭し、744年にウイグルのクトルクボイラが自立して可汗を称し、突厥の最後の可汗を捕らえて殺し、その首級を長安に送った。こうして突厥第二帝国は瓦解した。
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