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ソンツェン=ガンポ

7世紀にチベットを統一した王。唐と対等な交渉を行い、時に攻撃した。中国とインドの双方から文化を受容した。

ソンツェンガンポ
ラサの寺院に祀られるソンツェンガンポ王
実教出版『世界史B』p.87
 7世紀の初めにチベット(吐蕃)を統一し、唐帝国と対抗した王。チベットの諸部族を統一したソンツェン=ガンポは、唐と吐蕃のあいだにあった吐谷渾(とよくこん、鮮卑系の吐谷渾がチベット人を支配した国)から諸制度を学びながら自立し、唐に対し公主(皇帝の娘)との婚姻を要求した。唐の太宗(李世民)がそれに応じなかったため、638年唐の国境を攻撃、641年に太宗はソンツェン=ガンポの実力を認め、文成公主(皇帝の娘を公主と言うが、この場合は実の娘ではない)をチベットに降嫁させた。文成公主は中国の仏教をチベットに伝え、チベットの中国文明受容のきっかけを作った。
 また、ソンツェン=ガンポ王はもう一人の妃をネパールから迎えており、インドとの関係も深い。唐がインドのヴァルダナ朝に派遣した王玄策の求めに応じて、インドにも派兵した。伝承によるとインドに使者を派遣して文字を学ばせ、インドの文字をもとにしてチベット文字を作らせたという。

Episode チベット仏教の母 文成公主

 公主とは皇帝のむすめの意味である。中国の王朝が北方の異民族の国を懐柔するために、黄金や絹などとともに、公主を嫁がせることがあった。烏孫王に嫁いだ漢の武帝の時の細君や、匈奴の単于に嫁いだ同じく漢の元帝の時の王昭君などが有名である。そのような公主を和蕃公主といった。文成公主も唐の太宗の吐蕃懐柔策としてチベットに向かった。ソンツェン=ガンポは王位を子のグンソンに譲っていたので、文成公主はグンソンの王妃となった。ところがグンソンは落馬がもとで若くして死んでしまい、ソンツェン=ガンポが復位した。チベットやモンゴルでは先代の王の妃は次の代の王の妃となる習わしがあったので、今度はソンツェン=ガンポの王妃となった。
 文成公主の降嫁に伴い、農作物の種子や養蚕、製粉、紙作り、酒造りなどの技術を持つ中国人職人がチベットに移り住んだので、中国の文物がチベットにもたらされた。とりわけ仏教を崇拝した文成公主はラサに寺院を建てチベットに仏教を伝えた。
 ソンツェン=ガンポが亡くなると実権を握った宰相が唐との対決姿勢をとったが、文成公主は唐との和親に努め、唐との全面対決を防いで吐蕃の存続を図った。現在にいたるまで、チベットでは文成公主の像が尊像として崇拝されている。なお、ソンツェン=ガンポのもう一人の王妃はネパールから来た王女で、彼女はネパール(インド)の仏教を伝えた。こうしてチベットには中国とインドの仏教が混合した独自のチベット仏教が成立する。<山口修『中国史55話』山川出版社>
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3章3節 ウ.唐と隣接諸国
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山口修
『中国史55話』
山川出版社