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チベット/吐蕃/チベット自治区

中国の西南部の高原地帯をチベット高原という。7世紀にソンツェン=ガンポ王が部族を統合して吐蕃が成立。唐と対等な婚姻関係を結び栄えた。中国、インド双方の文化の影響を受け、チベット仏教が成立した。清朝のもとで藩部として支配されたが、1913年に独立した。しかし、中華人民共和国成立にともないその領土とされ、反発したダライ=ラマ14世に指導された反乱が起きたが鎮圧され、1965年にチベット自治区とされた。独立要求は今も強く、現代中国の問題点の一つとして続いている。


チベット

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 チベット(ティベット)は中国の西部、タクラマカン砂漠の南、ヒマラヤ山脈の北に広がる広大な高原地帯。チベット系の民族は中国では早くから、と言われ、漢民族から見て北方民族の一部とされていた。4~9世紀、黄河上流の青海地方に興った吐谷渾(とよくこん)もチベット系であるとされている。
チベットの範囲と名称 チベット系の人々が居住し、歴史的にチベットとされる地域は、現在のチベット自治区に限られることはなく、雲南省・四川省・甘粛省にも及んでいる。チベット Tibet という呼称は18世紀にヨーロッパで用いられ始めたもので、モンゴル語の「トベット」や漢語の「吐蕃(トゥファン)」に由来すると思われるが、アラビア語の「トゥバット」の可能性もある。<ルヴァンソン/井川浩訳『チベット』2009 文庫クセジュ p.14>

チベット(1) チベット王国(吐蕃)

7世紀にソンツェン=ガンポ王がチベット部族を統合して吐蕃が成立。唐と対等な婚姻関係を結び、中国、インド双方の文化の影響を受けた。

チベット王国(吐蕃)

 5世紀頃チベット高原にチベット王朝が成立、7世紀にソンツェン=ガンポが現れ、諸部族を統一して強大となり、唐では「吐蕃」と言われるようになった。唐と吐蕃の中間に勢力を持っていた同じチベット系(支配者は鮮卑系だった)の吐谷渾と同盟していたが、その吐谷渾が唐に討たれたため、唐との関係が悪化した。ソンツェン=ガンポは638年、唐の領土を侵して進出した。641年、唐の太宗文成公主(実の娘ではないが)をソンツェン=ガンポに嫁がせ、両国の和睦を図った。公主は皇帝の娘のことで、中国の皇帝が娘を周辺諸国の妃とした場合を和蕃公主という。このような対等な関係が成り立ったのは、唐と隣接諸国との関係では特殊な例であった。ソンツェン=ガンポの居城は、現在もラサのポタラ宮殿であり、ダライ=ラマの居城となっている。

チベット文字とチベット仏教

 ソンツェン=ガンポは一方でインドからも夫人を迎え、インドの文字をもとにチベット文字を作らせている。このようにチベットの文化は中国とインドの影響を受けているが、後者の方がより強い。双方の文化の影響を受けながらチベットで独自に発達した宗教がチベット仏教である。

唐との講和

 649年にソンツェン=ガンポが死ぬとしばらくして唐と対立するようになり、安史の乱の混乱に乗じて、再び長安を占領したが一時的なものに終わった。
唐蕃会盟碑 唐と吐蕃は安史の乱後もしばしば衝突を繰り返していたが、吐蕃は8世紀末にはウイグルに圧迫されて次第に孤立し、唐との関係修復を迫られた。唐も財政難が深刻となり、和平に応じることとなって、821年、両国は長安で講和した(長慶の会盟)。翌年にはラサで会盟し、講和を確認した。翌823年にラサに講和の記念する石碑として「唐蕃会盟碑」と立て、一つは国境におき、一つは中国の首都におかれた。
 唐蕃会盟碑は現在もチベットの首都ラサのジョカン寺の門前に残されており、高さ3.4m、表面(西面)に漢字とチベット文字で盟約文を載せ、裏面(東面)にチベット文字で唐とチベットの交渉の経過を記した。側面の北面にはチベット側の、南側には唐側の会盟参加者の漢と姓名を記し、9世紀初めの貴重な歴史資料であると共に当時のチベット語、漢語を知る上での材料を提供している。
(引用)チベットの大王と中国の大王は、甥と叔父の関係において、共同で両王国のあいだに同盟関係を付与した。チベットと中国は、現在の国境を維持するものとする。すなわち、東方に位置するものはすべて大中国に属し、西方に位置するものはすべて明白に大チベットのものである。今後、両国間には戦火も領土の争奪も発生させてはならない。(中略)この荘厳な合意は、チベット人がチベットの地で幸福に暮らし、中国人が中国の地で幸福に暮らす、偉大な時代の幕を開ける」。<C.ルヴァンソン/井川浩訳『チベット』2009 文庫クセジュ 白水社 p.30-31>
 9世紀以降は古代王朝としての吐蕃は衰退した。

チベット(2) モンゴルと明、清の支配

13世紀にはモンゴルに支配されたが、チベット仏教がこの時期に栄えた。17世紀にダライ=ラマの宗教国家となるが、清朝によって征服され、その藩部として支配された。。

モンゴルによる支配

 13世紀にモンゴル高原に登場したモンゴル帝国は急速にその勢力を拡大し、1252年、モンケ=ハン(憲宗)は弟のフビライをチベットに南下させ、さらに雲南地方を攻略させた。継いでハンとなったフビライはを建国し、チベットもその支配を受けることになった。この過程でフビライはチベット人パスパに公用文字としてパスパ文字を作成させ、チベット仏教を保護した。その結果、モンゴル人社会にチベット仏教が浸透することとなった。

明とチベット

 明の永楽帝はたびたび自らモンゴルへの親征し、その支配圏を拡大した。チベットには直接侵攻することはなかったが、宦官を派遣し、さらにチベット仏教の高僧を北京に招いてその状況を把握し、分割統治を行った。

清朝による支配

 こうしてチベットは、17世紀以降はダライ=ラマの支配する宗教国家となる。清朝はモンゴル高原に続いてチベットにも進出して政治的な支配を及ぼしたが、ダライ=ラマとパンチェン=ラマはチベット人の帰属意識の象徴としてその地位を認めた。実際には異民族支配地の一つの藩部として理藩院が管轄した。

チベット(3) 近現代のチベット

清朝の衰退に伴い、イギリスがインド方面から、ロシアも中央アジアから進出し植民地化の危機が続いた。清が辛亥革命で倒れた1911年、ダライ=ラマがチベットの独立を宣言した。第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国は1950年に軍事侵攻して併合、1965年からは自治区としている。

ダライ=ラマの独立宣言

 19世紀末から20世紀初めにかけて帝国主義の時代になると、清朝の衰退もあり、インドを植民地支配していたイギリスがチベットに進出、また中央アジア方面から南下するロシアの勢力も及んできて、チベットは植民地化の危機にさらされた。
 1911年に辛亥革命で清朝が倒れると、チベットは1913年にダライ=ラマ13世の下で独立を宣言した。

中国のチベット侵攻

 1949年、国共内戦に勝利して中華人民共和国を樹立した中国共産党は、清朝のチベット統治権を継承すると主張した。1950年10月、毛沢東は、チベットのパンチェン=ラマの要請を受けて侵略者を排除するという口実で軍隊をチベットに派遣した。これを中国軍の侵略と見なし、武装抵抗するチベット人の集団もあり、彼らはゲリラ的に抵抗を続けた。中国側の代表鄧小平はチベットに対し、中華人民共和国への併合、人民解放軍兵士の駐屯、帝国主義諸国との関係の断絶を要求し、13歳になったばかりのダライ=ラマ14世は代表団を北京に送って交渉させた。
 1951年5月にチベットは中国側の要求を受諾し「17カ条協定」を締結した。それによってチベットの自治、ダライ=ラマとパンチェン=ラマの地位と職権の維持、チベットの宗教・風俗の保護、ラサへの人民解放軍の駐屯などを条件としてチベットは中華人民共和国に併合された。人質同然の代表団は、受諾を拒否すればラサを攻撃するという脅しに屈せざるを得なかったのだった。
 中国共産党が漢民族以外の少数民族の権利や自治は認めるとしつつ、領土に関しては帝国主義的な姿勢をとったことは、共産主義の理念とは合致しないのであるが、彼らはチベットは歴史的にも「中国」の一部だと考えた。その姿勢は現在も変わらないが、多くのチベット人は、自分たちは独自の文化と歴史をもち、チベットは自分たちの「領土」であると認識している。この意識の乖離は現在まで続き、チベット問題を深刻にしている。<ルヴァンソン/井川浩訳『チベット』2009 文庫クセジュ>

チベットの反乱

 中国がチベットを領有したことによって、多くの漢民族がチベットに移住していった。その結果、チベット各地で漢民族とチベット人の衝突事件が起き、チベット人の中に反中国の意識も強くなった。特にチベットの支配層、地主層は、中国共産党による社会主義化が進むことによって財産が奪われることを畏れ、彼らを支持層とするチベット仏教の僧侶(ラマ僧)も中国に対する反感を強めていった。彼らの精神的支柱であるダライ=ラマ14世はわずか22歳の青年であったが、必然的に反中国運動の指導者とならざるを得なかった。
 1959年3月ダライ=ラマ14世を擁し、僧侶や貴族が中心となって、チベット人は反中国のチベットの反乱を起こした。ダライ=ラマはチベットの独立を宣言し、反乱はチベット全土に広がったが、駐屯する中国人民解放軍によって鎮圧され、ダライ=ラマ14世はインドに亡命、それを追うようにして約10万のチベット人が続いてインドに逃れた。ダライ=ラマ14世はインドのアルナーチャル=プラデーシュ州タワンに亡命政権を樹立した。
 インドのネルー首相はダライ=ラマ支持を表明し、中国を非難、両者の国境線をめぐる対立に火がつき、1962年10月中印国境紛争が勃発する。しかし、インド軍は装備に劣り、中国軍に敗北したため、ダライ=ラマはチベットに帰ることができなくなり、現在も亡命を続けている。

チベット自治区の成立

 チベットの反乱の後の1965年に中国政府はチベットを自治区の一つとしたが、そこに至る経緯は現代の中国人の研究者である王柯の『中国の少数民族』での説明は若干、ニュアンスが異なっている。中国共産党は、抗日戦争を続ける過程で、国家分裂の危機を回避するため、多くの民族を抱える中国においては「民族独立」ではなく、「民族区域自治」であるべきであると方針を転換した。チベット族に関しては中共は最初から「民族区域自治」を実施することが規定方針と考えられ、中華人民共和国樹立後の最初に設立した自治州と自治県は1950年の甘粛省天祝チベット族自治県と西康チベット族自治区(現在の四川省のチベット自治州)であった。1956年4月、ダライ=ラマ14世を委員長、パンチェン=ラマ10世を第一副委員長、解放軍のチベット軍区司令官を第二副委員長として「チベット自治区準備委員会」が設立され、自治の形態についていくつかの案が検討された結果、チベット地域のチベット人を対象とした「チベット自治区」(中国語では西蔵自治区)を設立することになった。「ところが、自治区の成立が伝統的社会制度の廃止につながる危険を感じ、ダライ=ラマをはじめとする旧上層部が反乱を起こした(引用者注、1959年のチベット反乱のこと)。中国政府が反乱を鎮圧して、1965年9月1日「チベット自治区」が設立された。」<王柯『多民族国家 中国』2005 岩波新書 p.80-81 >
 なお、チベット人はチベット自治区以外にも、青海、雲南、四川、甘粛の各省に、10の自治州と2つの自治県を構成している。また、自治区は自治行政府を持ち、省と同等の自治権を認められている行政区画。チベット自治区のほかに、内モンゴル自治区新疆ウイグル自治区、寧夏回族自治区、広西チワン族自治区の5自治区がある。

チベットの現状

 ダライ=ラマ14世はチベット問題を訴える世界的な活動を続け、1989年にはノーベル平和賞を受賞したが、チベット本土での独立運動はほぼ押さえつけられている状態が続いた。2006年、北京からラサまでの直通鉄道が開通すると、以前に増して漢民族のチベットへの経済進出が激しくなり、チベット人の反中国感情が再び強まっている。1989年と2008年には大規模な騒乱が起き、ウイグル人の独立運動とともに、中国の抱える深刻な民族問題となって表面化している。 → 中国の少数民族
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ルヴァンソン/井川浩訳
『チベット』
文庫クセジュ 2009

王柯
『多民族国家 中国』
岩波新書 2005