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李世民/太宗

唐を建国した李淵の子。第2代皇帝太宗として律令体制の整備に努め、7世紀前半の貞観の治と言われる唐帝国繁栄の時期を出現させた。

 李世民は、父李淵(高祖)に勧めて挙兵し、の建国に功績があった。第2子であったが、兄の李建成を殺害し、父の高祖を幽閉(626年の「玄武門の変」)して第2代の皇帝太宗(在位626~649年)となった。このような異常な方法で権力を握った皇帝であるが、統治者としては中国史上でも有数の名君とされ、その統治は「貞観の治」と言われている。

玄武門の変

 626年6月4日、長安の宮城北門の玄武門で、当時、秦王であった李世民は妻の兄長孫無忌、将軍尉遅敬徳ら9人を率いて、兄の皇太子建成と弟の斉王元吉を襲撃し、李世民は自ら兄と弟を射殺した。3日後の6月7日には李世民は皇太子となり、2ヶ月後の8月9日には帝位について父の高祖は太上皇帝に祭り上げられてしまった。この李世民の強引な兄弟と父親の排除は、普通、高祖が凡庸で酒色にふける建成を皇太子とし、挙兵に功績のあった李世民をないがしろにし、さらに建成が李世民を除こうと画策ししていることを知った李世民が先手をとったのだ、と説明されている。これは権力闘争に勝った李世民が自らの正当性を主張するために作り上げたことであろう。最近では、仏教と道教の対立が背景にあり、建成が仏教保護の立場であることに危機感を持った道教側が李世民を動かして皇太子建成の排除を図ったという説明もある。<礪波護『隋唐帝国と古代朝鮮』1997 世界の歴史6 中央公論新社 p.191>

貞観の治

 628年には陝西省の一部に残った独立政権も滅ぼされ、唐の全国統一を完成させた。内政では貞観律令を制定など律令制の整備に努め、三省六部制を確立させ、『貞観氏族志』を編纂させて氏族の格付けを行って貴族支配を安定させた。太宗を補佐した者の中には、魏徴や房玄齢など、名臣と言われる人物が多く、かれらは太宗に対して直言し、太宗も好くその進言を聞いたという。太宗と名臣たちの政治に関する問答をまとめた書物が『貞観政要』で、日本でもよく読まれ、源頼朝・政子、徳川家康なども愛読したという。

天可汗の称号

 さらに630年には東突厥が唐に降伏し、遊牧民諸部族は太宗に「天可汗」の称号を贈った。可汗は柔然以来の北方民族の王の称号であり、唐の太宗が、漢民族の支配者としてではなく、北方遊牧民をふくめた「世界帝国」の皇帝として認められたことを示している。
 唐は征服した北方や西域に都護府を置き、羈縻政策による間接統治を行った。

世界帝国としての唐

 吐蕃(チベット)ソンツェン=ガンポに対しては娘の文成公主を嫁がせて和親策をとり、遠くインドのヴァルダナ朝ハルシャ王が使節を派遣すると、唐からは王玄策を派遣した。
 東方の高句麗遠征には失敗したが、百済、新羅とは冊封関係を結んだ。日本からは朝貢を受け入れ、多くの留学生や留学僧が都長安に来た。このように太宗の時代は唐が「世界帝国」として成立した時代である。この時代は玄奘のインドへの旅行などが行われ、東西の文化の交流が進み、その都長安は国際色豊かな文化が繁栄した。
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ノートの参照
第3章3節 ア.隋の統一と唐の隆盛
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礪波護/武田幸男
『隋唐帝国と古代朝鮮』
世界の歴史6
1997 中央公論新社