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安史の乱

唐の節度使、安禄山らの起こした大乱。755~763年。唐の玄宗は一時長安から逃れ、安禄山は洛陽で大燕皇帝を称す。その後内紛で安禄山は殺害され盟友の史思明が継承するも再び内紛で殺され、ウイグル軍に支援された唐によって鎮圧された。安史の乱後、唐は衰退に向かうが、募兵制や両税法などで支配体制を修復しながら、907年まで存続する。

 755年節度使安禄山が反乱を起こした。反乱軍は一時都の長安を陥れ、唐は滅亡寸前まで行ったが、安禄山が内紛で殺され、その盟友の史思明が反乱軍を指揮したので、二人の姓を合わせて「安史の乱」という。唐は玄宗皇帝が長安を離れたまま退位し、粛宗、代宗と継承され、その間、北方の遊牧騎馬民族ウイグルの支援を得ることに成功し、次第に態勢を回復して、763年に、反乱軍を鎮圧した。

安史の乱の原因と経過

 乱の直接的原因は、唐の玄宗の寵愛を受けた楊貴妃とそのおいの楊国忠一族と対立した節度使安禄山が、楊氏一族の排除を掲げて反乱を起こしたことであったが、背景には唐の律令制度の行き詰まりという社会不安があった。以下、一言で安史の乱と云っても足かけ9年に及んだ大乱であり、途中経過も見ておいた方がよいので、その概略を示す。結果だけを知りたい人、先を急ぐ人は読み飛ばして下さい。
  • 755年11月、幽州(現在の北京)を本拠とする范陽節度使の安禄山は史思明と共に反乱を起こした。当時の北京にはソグド人(イラン系)の軍人や商人が多数存在する大都市で安禄山もソグド人の父と突厥人の母から生まれた人物であり、節度使て大きな力を有し、10~15万と言われた反乱軍には多くの西域系の異民族が傭兵(健児)として含まれていた。反乱軍は年内に洛陽を陥れた。
  • 756年正月元旦、安禄山は洛陽で大燕聖武皇帝として即位。もし安史の乱が「反乱」に終わらず、唐を滅ぼしていたら(十分その可能性はあった)これが新しい王朝のはじまりとなっていたであろう。唐の玄宗は反乱勃発に対し鎮圧軍を派遣したが敗れ、その報が入った長安ではパニックになり、楊国忠の主張により玄宗は蜀(四川)に蒙塵(皇帝の都落ち)することとなった。6月13日、皇帝・楊貴妃・楊国忠らは長安を脱出したが、馬嵬(ばかい)駅まで来たところで兵士たちが皇帝に迫り、国難の元凶として楊国忠・楊貴妃が殺害された。
  • 同年7月、皇太子は北西の霊武に向かい朔方節度使郭子儀の支援のもと、粛宗として即位。四川に逃れた玄宗を上皇にまつりあげた。粛宗は9月、ウイグルに援軍を求める。ウイグルの第二代可汗磨延啜はそれに同意し唐王室との婚姻関係を約束した。また、唐の地方官吏の中にも顔真卿のように反乱軍に抵抗するものも多く、反乱は順調ではなかった。
  • 757年正月 大燕皇帝安禄山は視力を失い、壊疽に罹り、イライラが昂じて宴楽に興じるようになった。さらに愛妾の子を後継ぎにしようとしたため、嫡子の安慶緒が反発して父を殺すという事態となった。唐の粛宗はウイグル軍の支援を受けて反撃に転じ、同年9月15万の大軍で長安を回復し、さらに10月には洛陽を回復した。
  • 758年5月、ウイグルの可汗磨延啜は唐の粛宗に対し公主降嫁を要求、粛宗は王女を寧国公主としてその求めに応じた。7月ウイグル可汗のもとに送られる公主と粛宗は泣いて別れを惜しんだ。ウイグルの可汗は王子に3000騎を率いさせて返礼として派遣した。
  • 759年3月、史思明は安慶緒を殺し、4月、自ら大燕皇帝として即位。一方、ウイグル可汗磨延啜が急死、寧国公主は殉死しなければならなかったが抵抗し、ウイグルを脱出、8月に長安に帰った。ウイグルでは第三代として牟羽可汗(ウイグル史上の名君とされる)が即位した。
  • 760年閏3月、史思明が洛陽に入城し、再び長安の唐朝と対抗する形勢となる。しかし史思明は愛妾の子を溺愛して後継者にしようとしたため長男の史朝義が不満を持つようになった。史思明は史朝義の部下によって幽閉され、翌年2月、殺害され、史朝義が大燕皇帝となった。
  • 762年4月、事実上の蟄居生活中だった玄宗が死去、粛宗もわずか10日後に死んで、代宗が即位した。これを知った洛陽の史朝義はウイグルに対し長安を奪うことを働きかける。牟羽可汗も同意して大軍を長安に向けたが、途中で引き返し、再び唐側に付くことになった。このとき可汗を説得したのは、唐の武将僕固懐恩(トルコ系)を父に持つその妻(可敦)だったと推定されている。唐軍とウイグル軍は合流し、10月に洛陽を奪還、史朝義は范陽(北京)に敗走した。
  • 763年正月 史朝義が范陽で自殺し、その首は長安に届けられて、安史の乱はようやく鎮定された。ウイグルの牟羽可汗は長安には入らず、モンゴリアに帰国した。
<以上、森安孝夫『シルクロードと唐帝国』講談社学術文庫 p.298-305 を要約し、諸書で補う。>

安史の乱後の唐帝国

 安史の乱は9年に及ぶ大乱で、主として中国北部が戦場となり、ソグド人やウイグル人などの騎馬部隊が農村を蹂躙し、国土は荒廃、多くの都市も破壊され、人口も減少した。しかし、反乱は鎮圧され、唐王朝はすぐに崩壊することなく、なおも150年ほど存続する。その理由を理解することが重要であるが、乱の前と同じ唐王朝がそのまま続いたのではなく、大きく変質したことによって命を永らえたと言うことができる。その変化とはどのようなものだったのだろうか。
 唐はすでに府兵制による軍事体制は崩れ、募兵制という傭兵制度に切り替えられ、各地の節度使に軍事指揮権がゆだねられるという体制に変化していたが、さらに安史の乱後に租庸調制という一律の税制を廃止して現実的な両税法に改め、また塩専売制によって財政を維持するようになった。このようにいわば安史の乱を境に唐は「軍事国家」から「財政国家」へと変質を遂げたと言える。唐がその後1世紀に渡って存続出来た理由は、依然として南部の穀倉地帯を抑え、また両税法・塩専売制で富を国家が独占する体制を維持できたことが大きい。
 しかし、安史の乱以後は、各地の節度使がが自立して藩鎮といわれるようになり、中央の朝廷の力は相対的に弱体化した。また安史の乱で唐を支援したウイグルが唐の北西部で強大となり、唐は西域の支配権を失うなど、かつての世界帝国としての唐を中心とした国際秩序は次第に失われていった。
 また、唐の朝廷ではすでに玄宗の時の高力士のような宦官が大きな力を持つようになっていたが、安史の乱の末期に粛宗が病気で倒れたとき、張皇后と宦官の李輔国が実権を得ようと争っていた。張皇后は皇太子を招いて李輔国を殺そうとしたが、李輔国は先手をうって皇后を幽閉し、粛宗の死を待って殺害し、新帝代宗を立てた。これによって武韋の禍や楊国忠のような皇后一族の政治介入はなくなったが、政治の実権は外戚にかわって宦官が奪うことになった。<宮崎市定『大唐帝国』中公新書 p.383>

参考 安史の乱と日本

 安史の乱は奈良時代の日本にも影響を与えた。当時朝廷の実権を握っていた藤原仲麻呂(恵美押勝)は、安禄山の反乱軍が唐軍に押された場合、日本まで侵攻する恐れがあると考え、西国に節度使を置き防備を固めると共に、かねてから画策していた新羅への出兵の機会を具体化しようとした。
 『続日本紀』には、天平宝字2年(758年)12月10日条に、遣渤海使小野朝臣田守が帰国して安史の乱のかなり詳細な報告をしていることが出ていく。その報告を受けて朝廷では次のような命令を太宰府に発している。
(引用)安禄山は狂暴な胡人で狡猾な男である。天命に違って反逆を起こしたが、事はならず必ず失敗するであろう。恐らくこのままでは西征の計画(仲麻呂の新羅征服計画)は不可能で、かえって海東を攻略にくるかもしれない。……大宰帥の船王と大弐の吉備朝臣真備は……この状況を理解して、予め優れた策をたて、たとえ(安禄山が攻めて)来なくとも、準備は怠ることのないようにせよ。<直木孝次郎訳『続日本紀』3 天平宝字2年(758年)12月10日条 p.24 東洋文庫>
 しかし藤原仲麻呂は孝謙上皇・道鏡と対立、764年その排除を狙って反乱を起こしたが失敗して敗死し、新羅遠征計画は実施されなかった。

参考 安史の乱の新しい見方

 「安史の乱」は中国の王朝に対する「反乱」として位置づけられ、説明されてきたが、それは中国史を軸とした狭い見方に過ぎないのではないか、という見解が出されている。安禄山がイラン系ソグド人であること、ウイグルの支援によって唐は乱を鎮圧することが出来たことなどは早くから注目されていたが、このような中央ユーラシアの遊牧民が大きく関わったことを重視し、「安史の乱」は中国史の分水嶺であっただけでなく、ユーラシア史の分水嶺であったと見る意見である。
 具体的には、安史の乱におけるウイグルは、単に唐を助けたのではなく、一時は反乱側の史朝義(史思明の子)と結んで唐を攻めようという姿勢を示したこともあり、「中央ユーラシア型国家」(いわゆる征服王朝)による中国支配もあり得た、とする。それはすでに渤海国に現れており、帝国の雛形であったととらえることができる。そのような「中央ユーラシア型国家」(草原の騎馬遊牧民が農耕地帯を支配する国家)は、10世紀になるとウイグル西ウイグル王国五代のなかの沙陀諸王朝、西夏カラハン朝ガズナ朝セルジューク朝ハザールマジャールという同じタイプの国家としてずらりと並ぶ。
(引用)このような見方に立てば、安史の乱には「乱」というレッテルに象徴されるような中国史側からのマイナス評価だけでなく、ユーラシア史の側から積極的なプラス評価を与えることができるのである。それは安史の乱が、10世紀前後に全ユーラシアにわたって認められる歴史的動向に連動するもの、より正確にいえば先行する事象であったと認めるからなのである。<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』講談社学術文庫 p.323>
「早すぎた征服王朝」論 安史の乱を起こし、それを維持した背景には、遊牧民の軍事力とシルクロード貿易による経済力の両方があった。つまり征服王朝となる条件は十分に備えていたが、最終的には安史勢力はウイグルを味方に取り込むことができず、軍事的に破綻した。もし安史の乱が成功していれば安史王朝となっていたであろうが、8世紀にはまだその基盤が十分整ってはいなかった。だから「安史の乱」はいわば「早すぎた征服王朝」だったのである。<森安孝夫『前掲書』 p.323>
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書籍案内

宮崎市定
『大唐帝国 中国の中世』
1968初刊
1988 中公文庫再刊

森安孝夫
『シルクロードと唐帝国』
興亡の世界史 2007初刊
2016 講談社学術文庫