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厓山の戦い

1279年、元軍が南宋の残党を広州の厓山で全滅させた戦い。

南宋の遺臣の臨安脱出

 元軍が臨安に迫ると、南宋の大臣の中には密かに逃亡するものがあり、中には文天祥のように兵を率いて果敢に元軍に抵抗したものもいたが、敗北は必至となった。講和の申し入れも元軍に拒否され、万策尽きた南宋の宰相陳宜中は、ついに降伏を決意し、伝国の璽(皇帝の位を象徴する印)をたてまつった。臨安に入った元軍の指揮官は幼帝恭帝と母后を捕虜として上都に送った。フビライは、帝を廃して、後に命じて僧とした。

南宋の最終的滅亡

 この1276年で、いったん南宋は滅亡したが、国璽を奉った日の夜、宰相陳宜中は夜陰に乗じて臨安を脱出し、恭帝の二人の弟を擁して海路、温州、福州、泉州へと逃れ、途中で上の弟を端宗として即位させた。泉州では当時招撫使として勢力のあった大食(アラビア人)の商人蒲寿庚が南宋の復興に協力を申し出たが、船が不足していた南宋の兵士が蒲寿庚の船を勝手に徴用したので、反発し元側につくという不利もあった。元軍の追撃を受けた端宗と陳宜中は占城(チャンパー)に赴こうとしたが、陳宜中は行方不明となり、端宗はわずか10歳で病死した。残った臣下の中で陸秀夫は端宗の7歳の弟を建てて皇帝として抵抗を続けることを呼びかけ、わずかな兵力で厓山に立てこもった。

厓山の戦い

 この地は広東省新会県の海上にある島で、潮流が激しく出入りする天険であったが、すべてが上陸できず、なおも20万の官民が舟中にいたという。フビライは軍を海陸から厓山に進軍させ、夜陰に乗じて総攻撃に移った。陸秀夫は、まず自分の妻子を促して海に身を投じさせ、さらに帝に対して「国事ここに至りました。陛下はお死にになるほかりませぬ。恭帝の辱めをうけてはなりませんぞ」とさとし、帝を背負い海に投じて水死した。帝は8歳であった。後宮や諸臣これに従って入水して死ぬ者はなはだ多く、死体の海に浮かぶものは十余万人あったという。ときに1279年、宋は北宋・南宋を通じて十八世・320年にして滅んだ。<周藤吉之・中嶋敏『五代と宋の興亡』1794 講談社刊中国の歴史5 学術文庫版 p.396-400>
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周藤吉之・中嶋敏
『五代と宋の興亡』
1974 中国の歴史5
講談社学術文庫版