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モンゴル人による中国の征服王朝。フビライ=ハン(世祖)が1271年に定めた国号。1279年、南宋を滅ぼし中国を統一支配した。都は大都(現在の北京)。モンゴル人第一主義で統治したが次第に漢人の反発が強まり、紅巾の乱などの農民反乱の後、1358年に滅亡した。

 モンゴル帝国の第5代のフビライ=ハンが1271年にこの国号を始めた、モンゴル高原と中国本土を中心とした国家。モンゴル人は大元ウルスと称した。その皇帝はモンゴル帝国の宗家の大ハンの位を兼ねた。1279年に残存勢力を一掃して南宋を滅亡させてからは、中国全土を統一支配し、元による漢民族支配はそれから約90年間続いた。漢民族から見れば異民族であるモンゴル人が、漢民族固有の統治形式を採用して中国を支配する、という「征服王朝」であった。大都(現在の北京)を都として中国本土と、モンゴル高原、西域、満州を含み、周辺のチベット、朝鮮、安南などを属国として支配した。1274年と81年には日本遠征(元寇)を行ったが失敗した。 → 元の遠征軍派遣

元の統治機構

 その統治機構は、中央の中書省・枢密院・御史台、など漢民族の機構を採用し、地方行政機構としては行中書省が置かれたが、実際の支配はモンゴル人を最上位に、次いで色目人(西方出身者)、その下に漢人(金の遺民)、最下部に南人(南宋の遺民)を置くというモンゴル人第一主義がとられた。

財政と税制

 中央政府の財源は、従来の中国王朝のような農民からの租税ではなく、塩の専売制と商取引に課税される商税であった。塩は「塩引(えんいん)」という引換券が発売され、それが政府の収入となった。商税は、ユーラシア大交易圏のの成立のなかで自由経済が掲げられ、フビライ=ハンの時にそれまで都市・港湾・関門を通るごとに徴集されていた通過税を撤廃し、商品は最終売却地で一回だけ商税を払う、いわば消費税(税率は3.3%)となった。こうして取引が増大し、銀だけでは不足した(16世紀の銀の大量流入の前であった)ため紙幣(交鈔)が発行された。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.191-194>

元の地方行政

 元は華北の金を滅ぼした後、戸口調査を行った上で、モンゴル王族や諸将に所領を分配、さらに元に降った漢人武装勢力と併存させた。1262年、フビライは華北の漢人軍閥の反乱を鎮定した後、路・府・州・県の4レベルの行政区画を整備し、各レベルにダルガチを置いて監視する中央集権体制をつくりあげた。

元時代の中国社会と文化

 その社会は、駅伝制(ジャムチ)や大運河の整備などで交通網が発達し、前代の南宋の商工業を継承して経済が盛んであり、紙幣として交鈔が流通した。農村では郷村のなかに漢人の大土地所有者が成長してきた。文化面ではモンゴル文化の独自性は薄れ、宮廷ではチベット仏教が保護され、公文書にはパスパ文字が使われた。科挙が中断されたため儒教や漢文学は衰えたが、民衆には元曲や通俗的な文学が流行した。この時代の文化の大きな特徴は、モンゴル帝国の成立という政治的統一を受けて盛んになった東西交流の結果、キリスト教やイスラームの文化が流入したことである。  → 元代の文化 

元の興亡

 元帝国の皇帝=大ハン位は必ずしも安定ではなく、ハイドゥの乱後も継承をめぐって内紛が続いた。1305年に乱は平定され、フビライ=ハン(世祖)と次の大ハンの成宗の時がもっとも安定した。また宮廷では次第に貴族層が形成され、その奢侈な生活は財政の困難を招き、そのための重税は次第に漢民族のモンゴル人支配に対する反発を強め、社会不安が強まるなか白蓮教徒などの新興宗教教団が生まれ、紅巾の乱として社会不安が爆発して1368年に滅亡、モンゴル人は中国本土を放棄してモンゴル高原に引き上げ、北元をつくることとなる。 → 元の滅亡 
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ノートの参照
第6章3節 イ.元の東アジア支配