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ヒッティーンの戦い/ハッティーンの戦い

1187年、アイユーブ朝のサラーフ=アッディーン(サラディン)のイスラーム軍が十字軍を破った戦い。

 1187年、イスラーム教側のサラーフ=アッディーン(サラディン)に率いられたアイユーブ朝軍がキリスト教徒の十字軍が建国したイェルサレム王国を破り、イェルサレムを奪還した戦い。ヒッティーンはハッティーンのとも表記する、現在のイスラエルの北部、ティベリウス湖の西岸に位置する。
 それより前、カイロを都としていたアイユーブ朝のサラーフ=アッディーンはシリアに進出し、1174年までにダマスクスを支配下におき、イェルサレムのキリスト教十字軍の占領地を挟撃する態勢をとっていた。

十字軍国家イェルサレム王国の敗北

(引用)7月2日、エルサレムを目指し出動した。エルサレム側は「無能な」ギー王を主将にテンプル・聖ヨハネ両騎士団などが主力であった。4日夜明けとともに両軍は丘陵頂上の「ハッティン」の角とよばれる岡の突起部の東の斜面で遭遇し、イスラム側が草原にはなった野火の煙と炎にまかれ、アッコン司教が奉持した「真の十字架」が奪われるに及んで勝敗は決した。」こうして、「聖地キリスト教徒軍はふたたびイスラム教徒軍に大敗を喫し、両者の立場を決定的に転換した。このいわばシリアの関ヶ原の戦いがハッティンの戦いであり、そのイスラム側の大将がかのアッティラとならび西ヨーロッパ人に恐怖と憎悪の念を植え付けた不世出の英雄サラディンであった。<橋口倫介『十字軍』岩波新書 P.148-152>
 この戦いは、十字軍とアラブの戦いの山場となり、この敗北を機に十字軍運動は後退していく。キリスト教側は、イェルサレム奪還をめざし、第3回十字軍を起こしたが、再びサラーフ=アッディーンに敗れ、奪還に失敗した。

アラブの見たヒッティーンの戦い

(引用)7月3日、約1万2千の兵力のフランク軍(アラブ側は十字軍をこう呼んだ)が行動を開始した。サッフーリーヤとテベリア(淡水湖)間の道のりは遠くなく、普通ならせいぜい4時間の行軍で走破できる。だが夏になると、パレスティナのこの地一帯は完全に不毛となって泉も井戸も涸れ、川も干上がってしまう。とはいえ、サッフーリーヤを早朝出発したフランクは、昼過ぎには湖畔で渇きをいやせると信じて疑わなかった。しかし、サラディンは綿密に罠を仕掛けている。日もすがら、彼の騎兵が敵を悩ます。前から、後ろから、両側面から攻め立てて、引きも切らせず矢の雨を浴びせるのである。こうして西洋人側に若干の損失を与えたが、かんじんなのは、その行進の速度を遅らせたことだ。  日没の直前、フランクはさる高地の鼻にたどりついた。すぐ足もとには、日干しれんがの家から成るヒッティーンの寒村が広がり、谷間のいちばん奥にはテベリアの水がきらめいている。そして、ずっと近く、岸辺に沿って広がる緑野は、サラディンの軍に占められている。水を飲むには、何と、スルタンの許可を得なければならない。  サラディンはほくそ笑む。彼にはわかっている。フランクが疲れ切り、渇きで死にそうになることを。また、夜までに湖への道を切り開く力も時間もないことを。したがって、夜は一滴の水もなく過ごさざるを得ないことを。・・・  翌日、1187年7月4日、夜明けの最初の光が差し込むや、完全に包囲されたフランクは、渇きでふらふらになり、やみくもに丘を駆け下りて、湖に達しようとする。・・・歩兵は、斧や大槌を重荷のように持ってめくら滅法に突っ走り、一波また一波、剣と槍の固い壁にぶつかって粉砕される。・・・ <アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳『アラブの見た十字軍』リブロポート p.290>

Episode 奪われた「真の十字架」

(引用)ムスリムは乾いた草に火をつけ、風は騎士たちの目に煙を吹きつける。渇きと、炎と、煙と、灼熱と、戦闘のほてりに攻め立てられ、フランクはもはや耐え切れない。しかし、彼らは、決闘以外に死から逃れる道はないと覚悟し、激しい攻撃を仕掛けたので、ムスリムたちは一時たじたじとなるほどであった。ところが、攻撃の都度、フランクは損害を出して数が減る。そしてムスリムは「真の十字架」を奪った。これはフランクにとっては最も重大な損失だ。というのは、彼らの主張するところでは、救世主は――彼の上に平和あれ!――この上で十字架にかけられたからである。<同上 p.291>
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ノートの参照
第5章2節 イ.バグダードからカイロへ
書籍案内

橋口倫介
『十字軍-その非神話化』
1974 岩波新書

アミン・マアルーフ
/牟田口義郎・新川雅子訳
『アラブが見た十字軍』
ちくま学芸文庫