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サラディン/サラーフ=アッディーン

イスラーム教国アイユーブ朝を建国。エジプトとシリアを支配し、イェルサレム王国を1187年に破り、さらに第3回十字軍を破り、イスラーム圏の英雄とされるが、出自はクルド人であった。

 正確にはサラーフ=アッディーン(「宗教の救い」の意味)だが、ヨーロッパにはサラディンという名が伝えられ一般化した。シリアのクルド人人部将アイユーブ家の出身で、イスラム神学を修め、17歳でダマスクスザンギー朝につかえた。サラディンの父のアイユーブは、ザンギー朝を創設したザンギーの有能な武将として活躍していた。ザンギーの子のヌールアッディーンが、エジプト・ファーティマ朝の内紛に介入して、アイユーブの兄弟のシールクーフを派遣したとき、その甥のサラディンもそれに従って出征し、アレクサンドリアの攻略などで活躍した。シールクーフはファーティマ朝に乗り込んで宰相に任じられ、実権を握った。1169年、シールクーフが急死したため、ファーティマ朝宰相となったサラディンは、カイロで実権を握って実質的にアイユーブ朝を起こした。

エジプトの宰相となる

 ザンギー朝からエジプトに派遣された部将シールクーフは見事にエジプトを制圧し、1169年1月、カイロに入った。ところが3月23日に「飽食した後で、彼は不快感を覚え、胸かきむしり、あっという間もないうちに窒息死」してしまった。カイロのファーティマ朝カリフ、アル=アーディドの重臣たちは、新宰相としてその甥のユースフ(サラーフ=アッディーン)を選んだ。軍の首脳の中でいちばん若く、いちばん経験が少なく、またいちばん弱く見えたからである。
(引用)ともあれ、サラディンはカリフの宮殿に召し出され、「アル=マリク・アル=ナーシル」、すなわち「勝利王」の称号と、宰相たるにふさわしい装具一式を受け取った。列挙すれば、金糸で縫い取りした白いターバン、深紅の裏をつけたチュニックを添えた衣装、宝石を象眼した剣、金を彫り込み、真珠で飾った鞍と馬具つきの栗毛の牝馬、その他多くの貴重品である。宮殿から退出して、彼は一群の随員を従え、宰相の屋敷に赴く。
 数週間のうちに、ユースフは権力を確立することに成功した。まず、忠誠心が疑わしいファーティマ朝の官僚を排除し、自分の側近に交代させ、エジプト部隊内部の反乱を徹底的に鎮圧する。そして最後は、1169年10月、フランク(十字軍)の愚にもつかなぬ侵入を撃退したことだ。これはアモリー(十字軍国家イェルサレム王国)の五回目の、そして最後のエジプト攻撃で、この時はナイル・デルタの東、ダミエッタの港を奪おうとした。<アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳『アラブの見た十字軍』リブロポート p.258>

アイユーブ朝を樹立 シリア進出

 さらに、1171年にファーティマ朝の最後のカリフが病死するとバグダードのカリフの承認のもと、アイユーブ朝のスルタンとして正式に承認された。またダマスクスのザンギー朝ヌール=アッディーンが死ぬと1174年にはダマスクスに無血入城を果たしシリアも併合した。こうしてカイロとダマスクスを抑え、エジプトからシリアに及ぶイスラーム世界はサラーフ=アッディーンを最高指導者として仰ぐこととなった。しかし、彼はスンナ派の揺るぎない信仰を持っていたのでバグダードのカリフの権威は認めており、あくまでその保護者として見料を行使しようとし、ファーティマ朝のシーア派勢力を完全に排除し、エジプトのスンナ派化を進めた。

Episode サラディン、暗殺教団に襲撃される

 スンナ派の回復を進めるサラディンに対して、シーア派の最も過激な集団である暗殺教団は、得意の刺客を派遣して暗殺を謀った。刺客はサラディンのテントにたどり着いたが護衛に見つかり、全員が殺害された。2年後の1176年5月には、テントに侵入し、サラディンの頭に切りつけた。頭巾の下の鎖帷子によって守られていたので、刺客は喉をめがけて第二の攻撃を仕掛けた。しかしそれも鎖帷子で妨げられ、刺客は間もなく異変に気づいて駆けつけた護衛によって斬り殺された。暗殺教団の一掃を決意したサラディンは1176年7月、その本拠地マスヤーフ城を包囲し、投石機での攻撃を繰り返したが、落とすことはできなかった。ある夜、護衛を立たせて就寝中のサラディンの枕元に、いつの間にか毒塗りの短剣で止められた紙片がおかれ、それには「どうあがこうとも、勝利は我らにあり」と書かれていた。それを見たサラディンは攻撃をやめ、急いで講和したという。<佐藤次高『イスラームの英雄サラディン』1993 講談社選書メティエ p.113-114>

十字軍を撃退、イェルサレムを奪回

 エジプト・シリアを併せて支配し、西アジアで最大の勢力を持つに至ったサラディンであったが、なお脅威として残っていたのが十字軍国家の存在であった。1187年にはイェルサレム王国のキリスト教軍をヒッティーンの戦いで破って、イェルサレムを奪回した。
(引用)1187年10月2日、サラディンは軍をひきいて念願の聖地入りを果たした。ヒジュラ暦では583年ラミャブ月27日、ムスリムたちがメッカからエルサレムへの預言者の「夜の旅」を祝う日にあたっていた。城壁にはサラディンの黄色い旗が掲げられ、町は八十八年ぶりに訪れた聖地の奪回に沸き立った。・・・
 次の金曜日がくると、サラディンは岩のドームでムスリムたちと公式の礼拝を行い、同時にアッバース朝のカリフ・ナースィルの名による説経(フトバ)が行われた。こうして聖地を異教徒の手から取り戻し、長年の夢はようやくかなえられた。しかしサラディンもエジプトで政権の座についてから二十年、すでに五十の歳を迎えようとしていた。<佐藤次高『イスラームの英雄サラディン』1993 講談社選書メティエ p.173-175>

リチャード1世と講和

 サラディンがイェルサレムを奪回したことを知ったキリスト教世界では、聖地回復をめざして第3回十字軍が起こされた。ドイツ王、フランス王、イギリス王の三国王が参加して出発したが、ドイツ王は途中で亡くなり、フランス王は引き揚げ、結局サラディンの相手となったのは、イギリス王リチャード1世だけであった。リチャードは直接イェルサレムを攻撃することを避けながら果敢に戦ったため、戦況は一進一退となった。サラディン側も戦線の収束に迫られ、両者の間で1192年に講和が成立、イェルサレムに対するサラディンの主権が認められる代わりに、キリスト教徒の聖地巡礼も保証された。この戦いによって、サラーフ=アッディーンの勇名がヨーロッパに伝えられれ、訛って「サラディン」と言われるようになった。

Episode サラディンの涙

 あるとき、十字軍と対峙していたサラディンの前に、フランク(十字軍)側からやってきて、胸を叩き嘆き悲しんでいる一人の女が引き立てられてきた。サラディンが通訳を介して質問するとこの女は次のように答えた。
(引用)「ムスリムの泥棒たちがきのうわたくしの幕舎に押し入り、幼い娘を連れ去りました。夕べは泣き明かしましたが、朝になると隊長たちが申します。ムスリムの王はなさけ深いおかただ。向こうへ行かせるから、娘のことを王にじきじきお願いしてみろ。そこでわたくしはこうしてお伺いし、あなたさまにおすがりする次第でこざいます」。こころを動かされて、サラーフッディーンの目から涙があふれた。彼は部下を奴隷市場へやって娘を探させた。すると一時間もたたぬうちに、一人の騎兵がくだんの娘を肩にかついで戻ってきた。その姿を見るや、母親は地面に身を投げ、顔を砂まみれにするので、皆もこらえ切れずに泣いた。・・・<アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳『アラブの見た十字軍』リブロポート p.271>

サラディンの死

 ダマスクスにおいて黄熱病の病床に伏したサラディンは、コーランの章句を読誦しながら死去した。1193年3月4日、およそ55歳であった。墓はダマスクスのウマイヤ=モスクの北に現在も残されている。
 サラディンの死後、アイユーブ朝はサラディンの子どもたちによって分割され、ダマスクスとカイロは別な政権が存在することになり、サラディンのような求心力は急速に失われ、それでも50年以上存続したが、マムルークの台頭によってスルタン権力は形骸化し、ついに1250年に滅亡し、エジプトはマムルーク朝の時代となる。

Episode クルド人の英雄

 クルド人は現在もイラン、イラク、トルコの三国の国境の山岳地帯であるクルディスタンに居住する。彼らの居住地域はこの三国の利害が対立しているため、20世紀の現在も彼らは独立運動を続けているが実現していない。近年もイラクのサダム=フセイン政権のもとで、クルド人に対する人権抑圧があった。このクルド人の英雄が、シリアからエジプトを征服し、十字軍と戦ったサラーフ=アッディーン(サラディン)であり、現在も彼らの崇拝を受けている。

世界遺産 サラディンの城

 1188年、サラーフ=アッディーンが十字軍から奪い、その後拠点とした城が、シリアの港ラタキアから20kmほと入った内陸に残されており、2006年に世界遺産に登録された。カラット=サラーフ=アッディーンという。始まりはフェニキア時代に作られた城塞らしいが、ビザンツ時代に修築され、十字軍が拠点としていた。高い城壁と深い溝、跳ね橋など、ビザンツ時代・十字軍時代・イスラーム時代にそれぞれ修築された部分が残されており、サラーフ=アッディーンの活躍がしのばれる。
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ノートの参照
第4章2節 イ.バグダードからカイロへ
書籍案内

橋口倫介
『十字軍-その非神話化』
1974 岩波新書

アミン・マアルーフ
/牟田口義郎・新川雅子訳
『アラブが見た十字軍』
ちくま学芸文庫

佐藤次高
『イスラームの英雄サラディン』
1993 講談社学術文庫