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イェルサレム

パレスチナの中心都市で、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の聖地。現在はイスラエルの実効支配下にあり、首都機能が置かれている。各国は大使館をテルアビブに置いていたが、2018年、トランプ大統領がアメリカ大使館をイェルサレムに移したので、アラブの反発が強まっている。

イェルサレム(エルサレム)  Google Map

 イェルサレム(Jerusalem エルサレムとも表記)はパレスチナの中心にある都市で、古代のヘブライ王国の都とされてから現代に至るまで、西アジア(中東)で最も重要な政治的、宗教的都市として存続している。ユダヤ人にとっては「ダヴィデの町」と言われる政治的な都であっただけでなく、ユダヤ教にとっては、かつてヤハウェ神の神殿があった聖地であり、キリスト教ではイエス=キリストが布教した聖地であってゆかりの教会が残り、イスラーム教ではムハンマドが昇天したと伝えられる地としていずれも聖地とされている。つまり「三大啓示宗教(セム的唯一神教とも)にとって共通の聖域として古来親しまれてきたイェルサレムは、イスラエル人、パレスチナ人それぞれの拠点でもある。」<高橋正男『物語イスラエルの歴史』2008 中公新書 p.2>

古代のイェルサレム

ヘブライ王国の都

 前997年頃、ヘブライ王国(イスラエル)のダヴィデ王によって都として建設された。次のソロモン王の時、ヤハウェ神殿が建てられ(第一神殿)、ユダヤ教の聖地として栄えた。
 ヘブライ王国分裂後はユダ王国の都となり、アッシリアのセンナケリブ王の攻撃を受けたが陥落しなかった。しかし、前586年に新バビロニアのネブカドネザル王によって第一神殿は破壊された。その時、ユダヤ人がバビロン捕囚の苦難を受け、前538年にペルシア帝国によって解放されてイェルサレムに戻り、ヤハウェ神殿を再建した(第二神殿)。

ローマの支配

 ヘレニズム時代にはセレウコス朝の支配を受けたが前166年からのマカベア戦争で自治を認められ、ハスモン朝が成立した。しかし、前63年にハスモン朝がローマに滅ぼされてその支配下に入り、ローマの傀儡政権ヘロデ王が君臨した。
 ヘロデ王の死後、ローマは6年パレスチナを属州として直接支配し、総督を派遣して統治するようにした。そのもとで、イェルサレム神殿の祭司によるユダヤ教の儀礼化が進み、それに反発する預言者の運動の中から、イエスが登場した。イエスはローマの支配と神殿を冒涜したという理由で30年に処刑された。
 その後、ユダヤ人の反ローマ闘争が起こったが、66年にはローマ軍がイェルサレムに侵攻、70年にヤハウェ神殿(第二神殿)を破壊し、その後は再建されることがなかった。この第1次ユダヤ戦争に続く2世紀前半の131年には、第2次ユダヤ戦争(~135年)が起こったが、それも鎮圧され、ユダヤ人は殺害されたり奴隷にされたりし、イェルサレムへの立ち入りを禁止され、その離散は決定的となった。

イスラーム支配下のイェルサレム

キリスト教・イスラーム教の聖地となる

 4世紀のコンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認してイェルサレムに教会を建ててからは、キリスト教の聖地とされ、五本山の一つとなる。ローマ帝国分裂後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の管理下に置かれていたが、638年以降はイスラームの支配を受け、イスラームでも教祖ムハンマドの昇天した地としてメッカ、メディナに次ぐ第三の聖地とされ、重視されている。はじめはヨーロッパのキリスト教徒も巡礼としてやって来ていたが、セルジューク朝の進出によってキリスト教徒の巡礼が阻害されるようになり、十字軍運動が開始される。それ以降、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教のそれぞれの聖地として、三つの勢力が角逐する場所となっている。

ムハンマドの昇天伝承

(引用)イスラームの伝承によれば、619年、ムハンマドは人生でもっとも特筆すべき出来事を経験した。彼はカーバの近くで眠っているところを天使ガブリエルに起こされた。ガブリエルに導かれて、彼はエルサレムへ旅した。そして、ある隆起した岩の上から天へと昇った。そこでアブラハムやイエスやモーゼなど偉大な預言者に会ったと言われている。この旅のクライマックスは、神のまえに立ったことである。イスラーム教徒にとっては、この旅はムハンマドの精神がいかに深遠であるかを改めて証明する奇跡であった。<ゴードン『イスラム教』シリーズ世界の宗教 1994 青土社 p.31>

イスラーム支配下に入る

 ムハンマドが632年になくなった後の正統カリフ時代ジハード(聖戦)が次々と展開された。第2代のカリフウマルの時、シリアに進出し、ビザンツ帝国軍を撃退しながら、イェルサレムに迫った。637年に始まった長い包囲戦の結果、ビザンツ軍は撤退し、イェルサレムはウマルに講和を申し入れた。638年2月、イェルサレムに入ったウマルは住民の安全を保障し、キリスト教の聖墳墓教会の存在も認めるという寛大な措置を執り、イェルサレムは両宗教の併存する都市となった(イェルサレムの和約)。

Episode カリフの寛容さ

 ウマルは有名な白いラクダに乗ってイェルサレムに入城すると、迎えに出てきたギリシア正教会の総主教に対し、全住民の生命と財産の尊重を明確に伝え、その上でキリスト教の聖地を訪ねた。総主教と供に聖墳墓教会をおとずれたとき、ちょうど祈りの時間となったので、総主教にどこで祈ったらいいか訪ねた。総主教は「どうぞここで」といったがウマルは「ここで私が祈ったらムスリムは明日もここで祈るでしょう」といって絨毯を抱えて外に出、そこにひざまずいた。その場所に後にウマルのモスクが建てられた。<アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳『アラブの見た十字軍』1986 リブロポート p.85(現在はちくま学芸文庫版)>

岩のドーム

 イェルサレムのムハンマドの昇天したと伝えられる岩の上に建てられた「ウマルのもスク」は、後のウマイヤ朝時代の692年に、カリフのアブド=アルマリクの命令によって岩のドームといわれるモスクが新たに建設された。「岩のドーム」は現在もイェルサレム旧市街の一角に黄金の屋根を輝かしており、イスラーム教徒の聖地とされているが、現在イェルサレムを実効支配しているイスラエル政府がたびたび侵犯し、両者の感情的対立を刺激し紛争になっている。

十字軍時代のイェルサレム

巡礼ブーム

 正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝の時代を通じ、イェルサレムはキリスト教・ユダヤ教・イスラーム教いずれもの聖地としてそれぞれの信徒が共存していた。ヨーロッパからの巡礼として多くのキリスト教徒が訪れ、また聖遺物を探して持ち帰るというのもブームとなっていた。セルジューク朝の時代になってもそれは変わらなかったが、聖地回復を提唱したウルバヌス2世によって始められた十字軍運動では、巡礼の妨害の排除もその口実とされた。

十字軍の侵攻・占領

 1096年に開始された第1回十字軍は、小アジアからシリアに入り、エデッサ、アンティオキアなどを占領し、イェルサレムに達した。この時イェルサレムを支配していたのは1098年7月にセルジューク朝からこの地を奪ったファーティマ朝であったが、長期の包囲戦の結果、ついに1099年7月15日に陥落した。その時、岩のドームなどのモスクに避難した住民が十字軍によって多数虐殺され、また略奪がおこなわれた。イスラーム教徒だけでなく、ユダヤ教徒やアルメニア教会派などの東方教会の信者も殺されたり捕らえられて奴隷にされたりした。
 十字軍はイェルサレムを占領し、十字軍指揮官ゴドフロワを国王とするイェルサレム王国とし、十字軍諸侯を領主として周辺に封じて封建国家十字軍国家を建設した。十字軍国家は西アジアのイスラーム圏の中のキリスト教国として存在し、一時はパレスチナからシリアに及ぶ範囲を支配した。

アラブの見た十字軍

(引用)フランク(アラブ側は十字軍をフランク人が起こしたと考えていた)が四十日間の攻囲の果てに聖都を奪ったのは、史実の上ではイスラム暦492年シャアバン月の22日金曜日、西暦でいえば、1099年7月15日のことであった。国を追われてきた人々は今もそのことを話すたびに体は震え、目は一点を見つめて、あたかも、鎧を着た金髪の武者が路上にあふれ、剣を振るって男女、子どもののどをかっ切り、家や寺院(モスク)を荒らし回っているのを、まだ目の前で見ているようだ。
 二日後、虐殺が終わった時に、城壁内にムスリムの姿は一人もなかった。中には混乱にまぎれ、寄せ手が押し破った城門をくぐり抜け、脱出した者もわずかながらいたが、他は何千という死体となって家の戸口や寺院の周辺にできた血の海の中に投げ出されていた。この中には導師(イマーム)や法学者(ウラマー)、神秘主義派(スーフィー)の苦行僧も多数いたが、彼らは聖地で敬虔な隠遁生活を送るために故国を離れてやってきた人々であった。最後まで生き残った者には最悪の仕事が与えられる。死体を背負って運び、広い空き地に埋葬もせず、墓もない所にただ山積みにしてから焼き払うのだ。その後で彼らもまた殺されるか、奴隷として売り払われた。
 エルサレムのユダヤ人の運命も悲惨きわまりないものであった。戦いが始まって数時間、一部は自分たちの居住地域、すなわち市の北側のユダヤ区の防衛に加わった。しかし、家々を取り囲んでいる壁の一部が崩され、金髪の騎士が通りに侵入し始めると、彼らは狂乱状態に陥った。居住区の全員が、しきたりどおりシナゴーグ(ユダヤ教の寺院)に集まり、祈りを捧げる。するとフランクは出口を全部ふさぎ、次いで、周りに薪を積み上げ、火を放つ。脱出を試みた者は近くの路地でとどめを刺され、他は焼き殺された。・・・<アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳『アラブの見た十字軍』1986 リブロポート p.5-6(現在はちくま学芸文庫版)>

サラディンのイェルサレム奪回

 1187年にアイユーブ朝のサラーフ=アッディーン(サラディン)はヒッティーンの戦いでイェルサレム王国軍を破り、その後にイェルサレムを包囲し、占領した。そのときは、十字軍の占領の時と違って、虐殺、略奪は起きなかった。

Episode サラディンのイェルサレム入城

(引用)1187年10月2日、金曜日。イスラム暦では583年ラジャブ月27日。それはムスリムが、エルサレムへの預言者の夜の旅を祝う日である。サラディンは聖地への堂々たる入場を行った。部将や兵士には厳しい命令が出される。フランクであろうが中東の人であろうが、キリスト教徒に対して指を触れてはならぬと。実際に、殺人も略奪も行われなかった。何人かの狂信者たちが、かつてフランクが行った暴虐への報復のしるしとして、聖墳墓教会を破壊すべしと主張したが、サラディンは彼らをたしなめた。それどころか、礼拝所に対する警備を強化し、フランクでも望むときはいつでも巡礼に来ることができると発表した。もちろん、岩のドームの頂上に立っていたフランクの十字架は引き下ろされた。教会に変えられていたアル=アクサのモスクは、壁にバラ水をふりまいた後、ムスリムの礼拝所に戻った。<アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳『アラブの見た十字軍』1986 リブロポート p.301>
 サラディンは、イェルサレムのキリスト教徒に身代金を支払った上での立ち退きを認めた。豊かな人々は家財を売り払って身代金を工面した。貧しい人々への身代金免除の要請があり、サラディンはそれを認めた。次いでスルタンは自分自身の考えから老齢者は無償で立ち退きが許され、捕虜の中の家長は釈放し、フランクの未亡人および孤児には贈り物を添えた上で立ち退かせた。

第3回十字軍

 イェルサレムの再占領を目指して、第3回十字軍が起こされ、アッコンを占領したが、イェルサレム再占領には失敗した。その主力となったイギリスのリチャード1世はサラーフ=アッディーンと講和し、キリスト教徒の聖地巡礼の保護を条件として撤退した。

フリードリヒ2世の入城

 サラーフ=アッディーンによってイェルサレムを奪還したアイユーブ朝であったが、その死後、後継者たちは、カイロとダマスクスで反目し合うようになり、内紛が生じた。それに乗じて神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世第5回十字軍を起こした。フリードリヒ2世はアイユーブ朝の内紛に乗じてカイロと交渉し、1229年にイェルサレムの支配権を認めさせ、入城した。

マムルーク朝・オスマン帝国の支配のイェルサレム

 1291年にアッコンをマムルーク朝に占領されて、イェルサレム王国は完全に消滅した。それ以来、この地を支配することとなったエジプトのマムルーク朝は、異教徒に対して寛容で、ヨーロッパのキリスト教徒のイェルサレムへの巡礼を認めていたので、キリスト教徒が常に排除されたわけではないので注意したい。状況が変化したのは、1571年にオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしてからで、オスマン帝国は政教一致のスルタンの統治の下でキリスト教徒に対して厳しい態度を取っていたので、緊張が再び高まった。

聖地管理問題

 16世紀のオスマン帝国、スレイマン1世の時に、イェルサレムの聖地管理権をローマ教皇の代理としてフランス王に与えられた。その後のオスマン帝国の弱体化に伴い、聖地管理権問題はヨーロッパのキリスト教国の介入の口実となっていく。フランス革命が起きるとロシアがギリシア正教会信者にとってもイェルサレムは聖地であるので、権利を主張してオスマン帝国から認められた。次にフランスのナポレオン3世はオスマン帝国に対して聖地管理権の返還を要求、それはフランスとロシアの対立を呼び、1853~56年のクリミア戦争となった。

近・現代のイェルサレム

イェルサレムの旧市街

 イェルサレムの旧市街(東イェルサレム)は16世紀前半にオスマン帝国によって再築造された城壁にとりかこまれている。その内部には各宗派、各教派ごとに5つの居住区に分かれている。すなわち、神殿の丘(旧市街の南東)・ユダヤ人地区(神殿の丘の西壁の西側)・キリスト教徒地区(西)・イスラーム教徒地区(北東)・アルメニア正教地区(南西)の5地区である。キリスト教徒地区にはキリストが十字架にかけられて処刑されたゴルゴタの丘に聖墳墓教会が建てられている。「神殿の丘」はかつてヘブライ王国時代のヤハウェ神殿があったところで、それが破壊された跡に建てられた「岩のドーム」はムハンマドの昇天したところと言い伝えられている。ヤハウェ神殿跡の西側にあたり、ユダヤ人地区に面している壁が有名な「嘆きの壁」で、ユダヤ教徒の聖地とされている。
イスラエル: 写真
イェルサレムの岩のドームと嘆きの壁
(トリップアドバイザー提供)
「嘆きの壁」  イェルサレムの「嘆きの壁」の前では今でも四六時中、ユダヤ教徒の男女が大勢群がって、泣きながら大きな声で祈りを捧げている。この「嘆きの壁」は高さ18m、幅27m。ユダヤ教の唯一神ヘブライ王国の第二ヤハウェ神殿の跡である。第二神殿は、紀元70年に終わったユダヤ戦争で、ローマ軍に焼かれて崩壊した。ここからユダヤ人の離散(ディアスポラ)が始まったのだ。132年にはバル=コクバ(ハル=コフバとも。星の子の意味)に率いられたユダヤ人がハドリアヌス帝のローマ帝国に反撃を試みたが、8万人が殺されて反乱は鎮圧され、それ以後ユダヤ人はイェルサレムに立ち入ることはできなくなった。1967年6月、第3次中東戦争で、それまでヨルダンが管理していたこの地区がユダヤ人に解放され、ユダヤ教の聖地としてこの壁に祈りを捧げることができるようになった。<上田和夫『ユダヤ人』1986 講談社現代新書>

宗教的コミュニティー

 イェルサレム旧市街の5つの宗教的コミュニティー(神殿の丘を別にすれば、ユダヤ教・キリスト教・アルメニア教会・イスラーム教の4地区)のうち、ユダヤ教区をのぞく3地区では、「一部イスラーム教徒もしくはキリスト教徒が共棲している。現実はこれらの三大啓示宗教各派の信徒集団に帰属することと、民族的・政治的アイデンティティー(自己同一性)とは必ずしも同一ではない。ちなみに、居住地区の基本的区分はビザンツ帝国時代にさかのぼる。十字軍以前の初期ムスリム時代には、現在のイスラーム教徒居住地区とユダヤ人居住区がそれぞれ入れ替わっていた。現在の区分はオスマン帝国時代の15~16世紀に定着したものである。城内は、石畳の狭い路地が迷路のように縦横に曲がりくねって、その迷路に沿って商店や集合住宅が密集している。居住人口は3万とも4万ともいわれる。」<高橋正男『物語イスラエルの歴史』2003 中公新書 p.6-8>

イェルサレム首都問題

イスラエル、首都と宣言

 1947年、国際連合が議決したパレスチナ分割案では、イェルサレムは国連の管理下に置かれることとされた。1948年5月、イスラエルは独立宣言、直ちにパレスチナ戦争(第1次中東戦争)に突入し、それに勝利して建国を成功させたイスラエルは1950年にイェルサレムを首都とすることを宣言した。しかし嘆きの壁を含む旧市街である東イェルサレムはヨルダンが支配していた。1967年の第3次中東戦争でイスラエル軍は東イェルサレムを占領、全市を支配下に置いた。それ以後イェルサレム全市がイスラエルの実効支配下に置かれ、1980年にはイスラエルは改めてイェルサレムを首都であると宣言、政府官庁、国会など首都機能はすべて同市におかれている。しかし、国連を初めとする国際世論は、それを認めておらず、そのため各国は大使館をイェルサレムには置かず、テルアビブにおいている(日本も含めて)。
アメリカの「イェルサレム大使館法」  1993年、オスロ合意によってパレスチナ暫定自治協定が成立し、パレスチナ暫定自治行政府が発足するとイスラエルとパレスチナ国家の共存の道が開かれた。パレスチナ国家は将来の首都を東イェルサレムに置くと想定された。アメリカはこの和平を仲介する立場にあったが、国内のユダヤ人団体などの和平に反対する勢力をなだめるため、1995年に「イェルサレム大使館法」を制定、1999年までに駐イスラエル大使館をイェルサレムに設置するとした。ただしそれはパレスチナ国家の成立を条件とし、かつその実施判断は大統領にゆだねるというものであった。
パレスチナ和平の頓挫  1995年、イスラエルでは右派勢力によって、和平を推進したラビン首相が暗殺され、右派のネタニヤフ政権が成立し、オスロ合意による和平は実態は失われることになった。イスラエルは東イェルサレムも含めてイェルサレムを実効支配、パレスチナ自治政府への領土返還にも応じない姿勢を強め、パレスチナ和平は急速に後退、再び対立が激化した。
第2次インティファーダ 象徴的な出来事が、2000年9月28日イスラエルの野党リクードの党首シャロンが護衛の警官とともにイェルサレムの「神殿の丘」に登ったことにパレスチナ側が反発し、インティファーダ(第2次)が起こったことである。
 この間、アメリカ政府はクリントン・ブッシュ・オバマ政権のいずれも情勢の悪化を危惧して「イェルサレム大使館法」の実行を見送っていた。

NewS トランプ、アメリカ大使館を移転強行

 ところが、2017年1月にアメリカ大統領となった共和党トランプ政権は、同年12月、「イェルサレム大使館法」を実施し、アメリカ大使館をテルアビブからイェルサレムに移転することを宣言した。この措置は、イェルサレムをイスラエルの首都と認めることになるので、イスラエル(ネタニヤフ政権)とアメリカ国内のユダヤ人団体は歓迎を表明したが、アラブ側・パレスチナ自治政府は当然ながら強く反発し、中東情勢を強く刺激、抗議行動が起こった。しかし、2018年5月14日、トランプ政権は大使館移転を実行した。この日はイスラエル建国70周年にあたっていたが、アラブ側にとっては「ナクバ(大災厄)」の日に当たるので、強く反発した。現在のところ、大使館をイェルサレムに移した国は少数に留まり、日本をふくめアメリカに追随する国は多くはないが、トランプ政権の既成事実づくりが定着する恐れがある。
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書籍案内

笈川博一
『物語エルサレムの歴史―旧約聖書以前からパレスチナ和平まで』
中公新書

高橋正男
『物語イスラエルの歴史』
中公新書

上田和夫『ユダヤ人』
1986 講談社現代新書

ゴードン
『イスラム教』
シリーズ世界の宗教
2004 青土社

アミン・マアルーフ
/牟田口義郎・新川雅子訳
『アラブが見た十字軍』
ちくま学芸文庫