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マムルーク朝

1250年、マムルーク出身者がエジプトで建てたイスラーム教国。都カイロはイスラーム世界の中心地として栄える。十字軍とモンゴルの侵入を撃退したが、14世紀半ばから衰え、1517年にオスマン帝国に滅ぼされた。

 13世紀後半から16世紀初め、カイロを都としてエジプトシリアを支配したイスラーム政権。1250年~1517年。マムルークとはイスラーム世界ではトルコ系奴隷兵のことで、アイユーブ朝でもその軍事力となっていたが、1250年にクーデターによってマムルーク出身者が権力を握ったのでマムルーク朝という。

クーデターと女性スルタン

 アイユーブ朝スルタンのトゥーランシャーは、フランス王ルイ9世の起こした第6回十字軍を撃退し、ルイ9世自身を捕虜にするという成功を収めたが、その戦いの主力となったマムルークを冷遇し、近臣を重用した。不満を強めたマムルーク出身の将軍たちは1250年5月、クーデターをおこし、30才のトルコ人青年将校のバイバルスが、スルタンを殺害した。これでアイユーブ朝は滅亡しマムルーク朝が始まったが、マムルークの将軍たちはアイユーブ朝の権威を利用しようとし、スルタンの妻シャジャルを担ぎ出し、彼女を女性スルタン(スルタナ)とした。これはムスリムの世界では前例の亡いことであった。彼女は間もなくマムルークの一人アイバクと結婚し、彼にスルタンの称号を授けた。しかし、マムルークたちは互いに反目し政権は動揺した。そんなとき、1253年からモンゴル帝国のフラグの西アジア遠征軍が姿を現し、大きな脅威となり始めた。1258年にはフラグはバグダードを攻略し、アッバース朝のカリフを殺害した。この差し迫るモンゴルの脅威に立ち向かうためマムルーク朝はバイバルスを中心に結束し、その指揮によって1260年のアインジャールートの戦いでそれを撃退、その勝利をもたらしたバイバルスを第5代のスルタンとした。それ以降はバイバルスの子たちにスルタン位が世襲される。

バフリーとチェルケス

 なお、マムルーク朝の前期に政権を握ったマムルークは、彼らの兵舎がナイルの中州にあり、当時ナイルはバフリー(海)と言われたので「バフリー=マムルーク朝」と言われる。
 1382年からの後期マムルーク朝になると北カフカスのチェルケス人マムルークが主力となるので「チェルケス=マムルーク朝」とも言われる。

聖地メッカ、メディナを支配

 なお、マムルーク朝は1262年から、アッバース家のカリフと称する者を保護し、マムルーク朝の支配者はカリフからスルタンの地位を与えられた形をとることとなって、イスラーム世界の最高権威を獲得したがイスラーム教スンナ派の正統神学ではこのカリフは認められていない。しかし、聖地メッカメディナも支配したマムルーク朝は、オスマン朝に滅ぼされる1517年まで、イスラーム世界の最大勢力として続いた

バイバルスの戦い

 マムルーク朝の第5代スルタン、バイバルス(在位1260~1277)は十字軍の侵入と戦って撃退し、またモンゴルのフラグが1258年にバグダードを占領しアッバース朝を倒して建国したイル=ハン国が、さらにエジプトへの侵入を企てると、1260年のアインジャールートの戦いで撃退した。さらにマムルーク朝は、1291年に、十字軍の建てたイェルサレム王国の最後の拠点アッコン(アッカ)を攻略し、キリスト教勢力を西アジアから一掃した。

首都カイロの繁栄

 マムルーク朝のもとで首都カイロは国際的な商業都市として繁栄し、その商人はカーリミー商人と言われてアラビア海方面で活躍した。また農業生産力も向上し、小麦・大麦などの主産物に加えて、サトウキビの栽培とそれを原料とした砂糖の生産が増え、主要な輸出品となった。その後も東西交易のルートを抑え、16世紀初頭までインド洋交易圏でのダウ船による海上貿易を支配した。

衰退

 14世紀の半ば以降になると、ペスト(ヨーロッパで黒死病といわれた)の流行がマムルーク朝にも及んで人口が減少し、凶作による飢饉も重なって次第に国力が衰えた。さらに15世紀になると小アジアに起こったオスマン帝国の圧迫を受けるようになった。さらに15世紀末にヴァスコ=ダ=ガマのカリカット到達によってインド航路が開拓され、ポルトガル勢力ののインド洋進出が活発となり、1509年にはディウ沖の海戦でマムルーク朝海軍はポルトガル海軍に敗れてアラビア海の制海権を失った。

滅亡

 1516年、マムルーク朝の騎馬部隊は、シリアに侵入したオスマン帝国セリム1世の率いるイエニチェリとのマルジュ=ダービクの戦いに敗れ、さらに1517年にカイロを占領されて滅亡した。マムルーク朝に保護されていたカリフの地位はオスマン帝国のスルタンが継承し、スルタン=カリフ制を採ることになったとされている。

Episode 女性スルタンの登場

 アイユーブ朝のマムルーク軍は1250年、第6回十字軍をエジプトのマンスーラで撃退した後、アイユーブ朝カリフが死んだので、その妻ジャジャル=アッドゥッルをカリフに立てて実権を握った。このイスラーム史上最初の女性スルタンとなったシャジャル=アッドゥッル(「真珠の樹」という意味の美しい女性であったという)は、彼女自身ももとアッバース朝のカリフに仕える女奴隷であった。女性スルタンに対しては反発が大きかったので、シャジャルはマムルーク出身の総司令官アイバクと再婚し、アイバクにスルタンの位を譲り渡した。シャジャルがスルタンとしてエジプトに君臨したのはわずか80日間だけであった。<この項、佐藤次高『マムルーク』東大出版会 p.106 による>
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第5章2節 イ.バグダードからカイロへ
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佐藤次高『マムルーク』
1991 東大出版会