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ガザーリー

11世紀末、セルジューク朝のイスラーム教神学者で、ニザーミーヤ学院の教授であったが神秘主義に転じ、その最初の理論をおこなった。

 アル=ガッザーリとも表記。1058~1111 セルジューク朝のイスラーム神学者(ウラマー)で11世紀末に活躍。はじめバクダードのニザーミーヤ学院の教授で著名なスンナ派神学者であった。ところが理性上の神学研究と、感性上の信仰心の矛盾に悩み、1095年、その地位を棄てて放浪の旅に出、独自の神秘主義思想を生み出した。

神秘主義の理論化

 彼は神と信仰者が一体化することによって真理に至ることができると説き、単なる合理的な「解釈」を排除し、神秘的な瞑想を続けた。彼の思想は、イブン=シーナーのギリシア哲学と融合させた合理主義的な考えを批判し、世俗的な安逸から離れて瞑想することによって神と一体化をはかるという神秘主義(スーフィズム)の最初の理論となり、その後のイスラーム教に大きな影響を与えた。12世紀のコルドバで活躍したイブン=ルシュドはガザーリーのスーフィズムに反対して、アリストテレスによるイスラーム神学の体系化を図った。

参考 ガザーリーのイスラーム思想上の位置づけ

 イスラーム教や、ましてや神秘主義については通常の学習では深く知る機会は少ない。そのため、イスラーム関連の用語や人名が出てきても、学習用の用語集や参考書だけでは、その重要性の度合いがわからない。ガザーリーという人物についても世界史を学んで初めて目にする名前であろうから、通りいっぺんの学習では忘れ去られてしまうのではないだろうか。そこで、イスラーム思想の専門的な学者が彼について触れている文を見ることによって、彼が世界史上も重要で、興味深い人物であることを理解しておこう。
(引用)時代が英雄を作り英雄が時代を作るということを思想の次元において身をもって証明した人として、ガザーリーはイスラームの知的文化の発展過程において特異な位置を占める。時のイスラーム文化の中心地バグダードの都にニザーム学園の教授としてその名は天下に名高く、衆望を一身に集め、幾多の高材逸足をその門下に擁した神学者としての燦然(さんぜん)たる彼の半生、突如として彼を襲った信仰と理性との劇(はげ)しい衝突、それに伴う精神上の危機、あらゆる栄誉、功名を棄て去ってバグダードを後に、俗世を遁(のが)れて、静寂と清浄を求めつつ旅に出て行く彼、「真理」を人に伝えるため哲学上の第一人者アヴィケンナを痛烈に批判する彼、円満な穏やかな人格、鋭くしかも繊細な分析的精神、天与の流麗たる文章、正にガザーリーこそはイスラーム思想史上の一偉観である。<井筒俊彦『イスラーム思想史』中公文庫 p.133>
ガザーリーの足跡を同書に依ってみると次のようなものであった。
 西欧の哲学界に Algazel として古くから知られていたアル=ガザーリーは、西暦1058年、ペルシアのホラーサーン地方、トースの附近の小村ガザーラに生まれた。幼時、法学の基本的知識を得、後にニーシャープールのイマーム・ル・ハラマインの門下に入った。たちまち老師に代わって論証法を講義するなど天才ぶりを発揮、1085年にセルジューク朝の宰相ニザーム=アル=ムルクの後援を受けて研究に打ち込み、イスラーム哲学、特にアリストテレス学派の研究に専心した。1091年、選ばれてバグダードのニザーミーヤの教授となった。名実ともに神学、哲学の最高権威となったが、2,3年経つうち彼の心に大きな疑惑が台頭し始めた。「彼は半生を費やして獲得した理性による神学や哲学が根底から揺らぎはじめるのを感じて、言い知れぬ不安を覚えずにはいられなかった。」
 1095年、彼は自分の精神が根底から崩れ落ちてしまったのを知ると同時に、新しく生まれ出でる何物かの力強い胎動を感じ取り、意を決して教授の地位を他に譲り、真理を求めて彷徨の生活に入った。彼はまずメッカへ、次いでダマスクス、イェルサレムを経てアレクサンドリアまで歩き続けた。その間、彼は冥想によって神と直接触れるのでなければ決して神の救いは得られないということを確信するに至った。そこで故郷のトースに帰り、俗世を外に完全な隠者生活に入った。そしてこの地でイスラーム暦505年第二ジューマーダ月14日(西暦1111年12月19日)にその生涯を閉じた。<井筒俊彦『同上書』 p.133-135>

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井筒俊彦『イスラーム思想史』
1991 中公文庫