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ニザーミーヤ学院

11世紀にセルジューク朝の宰相ニザーム=アルムルクが創設した学校。バグダードなど主要都市に設置され、スンナ派復興の拠点とされた。

 セルジューク朝のイラン人宰相ニザーム=アルムルクバグダードなどの都市に建設したイスラーム神学研究のためのマドラサの一種。9~11世紀のイスラーム世界ではシーア派の勢力が強大となっていた。バグダードを占領したブワイフ朝、エジプトのカイロを支配したファーティマ朝はシーア派であった(ただし前者は穏健派の12イマーム派、後者は過激派のイスマーイール派であったので対立していた)。ブワイフ朝に代わってバグダードに入ったセルジューク朝は、イスラーム世界の安定のため、シーア派を押さえ、スンナ派を復興させる必要に迫られた。そこで宰相ニザーム=アルムルクは、スンナ派のウラマーを育成するため、バクダード、ニシャプール、イスファハーンなどの都市にニザーミーヤ学院を建設、これらの学院(マドラサ)でスンナ派神学を教えさせた。バグダードのニザーミーヤ学院はイスラーム世界の学問の中心となり、12世紀の最盛期には数千名の学生がいたという。<佐藤次高『マムルーク』東大出版会 p.90>

宰相ニザーム=アルムルクによる設立

 イスラーム世界においては、学校としての機能を持つモスク附属の神学校としてマドラサがあり、さらに高等教育機関としては、すでにアッバース朝時代の9世紀に、バグダードに知恵の館が設けられていた。しかし、セルジューク朝のスルタン、アルプ=アルスラーンとマリク=シャーに仕えたイラン人の宰相(ヴィジール)ニザーム=アルムルクが、1065~7年に設立したニザーミーヤは、「学生のための食事や宿泊施設も備え、後世の高等教育機関のモデルとなった。」<ヒッティ/岩永博訳『アラブの歴史』下 講談社学術文庫 p.127>

イスラーム世界の高等教育機関

 セルジューク朝のトルコ人スルタンたちは、非アラブ人としてイスラーム世界を支配するため、いわば「その住民を手なずける手段として」競って芸術や高等教育を保護した。ニザーミーヤは特にシャーフィイ派および正統アシュアリ派の体系の研究を目的とする「神学校(マドラサ)」として建てられ、『コーラン』と古代詩が、ちょうどヨーロッパの大学で古典がそうであったように、「人文科学」研究の中核とされていた。
 ニザーム=アルムルクは、バグダードのニザーミーヤのほかに、ナイサーブール、その他のこの帝国の諸都市にいくつかの学校を建てている。かれは、サラーフ=アッディーン以前の、イスラーム世界における最も偉大な高等教育のパトロンだった。また詩人で学者のウマル=ハイヤームを保護したことでも知られている。
 ニザーミーヤ型の高等学林(マドラサ)はホラーサン(イラン北部)、イラク、シリア全土に広がり、マドラサの設立はイスラーム世界ではつねに称賛に価する行為と考えられた。旅行者たちの報告にあらわれるのもそのためであり、イブン=シュバイルはバグダードで約30、ダマスクスで約20のマドラサがあったことを伝えている。
教師ガザーリー ガザーリー(アル=ガッザーリとも表記)は、1091~5年の4年間、ニザーミーヤで講義をおこなった。ガザーリーは「かれの『(信仰諸学の)蘇り(イフヤー)』の中の学習に関する章で、「知識を当のが教育の目的である、という考えに挑戦し、学生の道徳意識を喚起する必要があることを力説し、それによって、教育問題を深遠な倫理学体系と有機的に結び付けたイスラム世界での最初の著作者となった。」また、ガザーリーは記憶力に優れ、30万の伝承を記憶することによって、「ファジャト=アル=イスラーム(イスラームの権威)」という称号をかちとった。<ヒッティ『前掲書』 p.129,131>

Episode とんだ記憶力増進法

(引用)もっと後のニザーミーヤの著名な教師の中に、サラーフ=アル=ウッディーン(サラディン)の伝記作者のバハー=アル=ディーンがいた。イブン=ハッリカーンの所伝によると、かれは回想の中で、あるとき、一団の学生が記憶力をよくするために、アナカルディア(はぜ)の粒のせんじ汁を大量に飲み、学生のひとりが、まったく正気を失って、裸で教室に出てきたことがあったと語っている。教室中の爆笑の中で、どうしたんだと聞かれた学生は、まじめくさってこう答えた。自分と仲間たちがアナカルディアのせんじ汁を飲み、仲間はみな頭がおかしくなったが、自分だけは幸いに正気を失わなかった、と。<ヒッティ/岩永博訳『アラブの歴史』下 講談社学術文庫 p.127>

イスラーム高等教育のその後

 ニザーミーヤ学院は、1258年にバグダードがフラグに攻撃されて陥落したとににも生き延びた。さらに1393年にティムールがバグダードを攻略した2年後には、アッバース朝末期に建てられた姉妹校であるアル=ムスタンシリーヤと併合された。アル=ムスタンシリーヤは、アッバース朝最後から二番目のカリフ、アル=ムスタンシルが1234年に、四正統派全部を教授する学校として設立したものだった。アル=ムスタンシルの建物には、入口に時計(水時計であろう)が置かれ、浴室と炊事場があり、病院と図書館も付設されていた。1327年にバグダードを訪れたイブン=バットゥータが詳細に伝えている。この建物は、1961年に学校として再建されたが、現在、博物館になっている「アッバース朝の宮殿」とともに、アッバース朝時代から残るただ二つの建物である。<ヒッティ『前掲書』 p.129-130>
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第5章2節 ア.東方イスラーム世界
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ヒッティ/岩永博訳
『アラブの歴史 下』
講談社学術文庫 1983