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セルジューク朝

中央アジア起源のトルコ人イスラーム政権。11世紀に大移動を行い、西アジアに入り、1055年にバグダードを占領、ブワイフ朝を倒しカリフからスルタンの称号を与えられる。1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ軍を破り、小アジアに進出。小アジアのトルコ化の第一歩となった。その西アジアへの進出は、ヨーロッパのキリスト教世界に大きな脅威を与え、十字軍の発端となった。その後、いくつかの地域政権に分裂、十字軍とモンゴルの侵攻があって、13世紀には消滅した。

 セルジューク族はもとはオグズ族といわれるトルコ系民族で、アラル海に注ぐシル川の下流(現在のカザフスタン)にいた。スンナ派イスラームを信奉し、はじめガズナ朝に服していたが、トゥグリル=ベクがニーシャープールで自立し、1038年に建国。セルジュークは一族の伝説的な始祖の名前からきた。

中央アジアから西アジアに進出

 1055年バグダードを陥落させ、シーア派のブワイフ朝を倒し、アッバース朝カリフからスルタンの称号を受け、スンナ派の支配を回復した。セルジューク朝はトルコ系の遊牧部族が軍事力の中心となっていたが、同時に同じトルコ人をマムルークとしても利用していた。また官僚として登用されたのはイラン人が多く、政治や学問で王朝を支え、いわゆるイラン=イスラーム文化が開花した。

小アジア進出と全盛期

 第2代スルタンのアルプ=アルスラーン小アジア(アナトリア)に進出し、1071年マンジケルトの戦いビザンツ帝国軍を破り、皇帝を捕虜とした。これによって小アジアのトルコ化が進み、ビザンツ帝国にとって大きな脅威となりはじめた。しかし、セルジューク朝はバグダードのスルタンに対して一族の分離傾向が強く、小アジアにはルーム=セルジュークといわれる独立政権が成立し、ニケーアを都とするようになった。そのもとで小アジアのイスラーム化が進んだ。

マリク=シャーの時代

 11世紀末はマリク=シャーのもとで全盛期となり、名宰相ニザーム=アルムルクのもとでイクター制という軍事・土地制度が整備され、またニザーミーヤ学院の創設など、学問も保護された。アラビア文学を代表する『ルバイヤート』の作者としても知られる科学者ウマル=ハイヤームが活躍したのもマリク=シャーの時代である。また11世紀末にニザーミーヤ学院の教授であったガザーリーは、イスラーム教の神秘主義(スーフィズム)を理論化し、スーフィーによる伝道が盛んに行われるようになった。

十字軍との戦い

 セルジューク朝のトルコ人に小アジアやシリア、パレスチナを奪われたビザンツ皇帝は、1095年、西欧のキリスト教世界に対しする救援を要請した。それを受けてローマ教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議を開催し、十字軍派遣を呼びかけ、これによって十字軍運動が展開されることとなった。翌年、西欧のキリスト教徒は、聖地イェルサレムの解放を掲げ、十字架を先頭にして小アジアのセルジューク領に侵入を開始した。
 十字軍の侵入が始まった時期のイスラーム世界は、アッバース朝のカリフがバグダードに存在するもその権力はまったく形骸化し、実権は同じくバグダードにいるセルジューク朝のスルタンが握っていた。しかしセルジューク朝自体はスルタンの一族が地方政権をそれぞれ樹立し、抗争に明け暮れていた。またエジプトにはスンナ派のセルジューク朝と対立するシーア派のファーティマ朝がシリアへの侵出を狙っていた。十字軍が侵攻したイスラーム世界はこのような分裂状態であったのである。
 そのためにセルジューク朝は一致して十字軍にあたることができず、場合によっては十字軍を引き入れて対立する一族を倒そうとするものまで現れた。そのような分裂状態に乗じた第1回十字軍は小アジアを進撃し、ルーム=セルジューク朝は都をニケーアからコンヤに遷した。さらに十字軍は進撃を続け、1098年までにエデッサ、アンティオキアを落とし、翌99年にはイェルサレムを占領した。もっともこの時イェルサレムはすでにファーティマ朝が支配していた。
 イスラーム世界の分裂に乗じた十字軍は、シリアからパレスチナにかけて、イェルサレム王国以下の十字軍国家を建設した。

衰退とモンゴルの侵入

 十字軍国家と並行してセルジューク朝も存続したが、12世紀には一族の分裂により、ケルマーン、ルーム=セルジューク(小アジア)、シリア、イラクなど四つの地方政権に分裂し、衰退する。1141年には東方から移動してきたカラ=キタイ(西遼)に敗れている。また13世紀には中央アジア方面からモンゴル帝国フラグの侵入を受け、イル=ハン国が成立するとその支配下に入り消滅する。

Episode セルジューク朝の都はどこか?

 教科書には、セルジューク朝の都はどこか、書かれていない。いろいろな王朝の都がどこだったかは、重要な情報なのに、なぜ記載がないのだろうか。セルジューク朝の場合は、いくつかの地方に分家ができて中心があいまいだったこともあるが、それ以上に重要なのは、君主が移動を続け、ある都市に腰を据えたということがなかったからである。君主はニシャープール、レイ、イスファハーンなどの都市やその郊外に滞在し、そこが中心地となった。ペルシア語では首都を「玉座の足」といっており、それは移動可能なものだった。<『都市の文明イスラーム』新書イスラームの世界史1 講談社現代新書 p.136 清水宏祐>
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佐藤次高/鈴木董編
『都市の文明イスラーム』
新書イスラームの世界史1
講談社現代新書