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トイトブルクの戦い

9年、アウグストゥスの派遣したローマ帝国軍がゲルマン人に敗れた戦い。ローマ帝国のゲルマーニア進出が阻止された。

 紀元後9年、ローマ帝国の軍がゲルマン人に敗れた戦い。皇帝アウグストゥスは将軍ウァールスに3軍団を率いさせて派遣したが、アルミニウスという首長に率いられたゲルマン部族連合軍に、トイトブルクの森で敗れてしまった。この敗北によってローマのゲルマニアへの進出は阻止された。
 トイトブルクの森とされている場所トイトブルクはドイツの北西部。最近、発掘調査ににより、実際に戦闘のあった場所が、トイトブルクではなく、オスナブリュック市のの北方約20キロの地点であったことが判明した。現在では「トイトブルクの戦い」ではなく、ローマの将軍の名をとって「ウァールスの戦い」と言われるようになりつつある。 → ローマ帝国

Episode 「ウァールスよ、余の軍団を返せ」

 トイトブルクの戦いで大敗した知らせを聞いたアウグストゥスは、数ヶ月間髭も剃らず髪も伸ばし放題で、時々扉に頭をぶつけて「ウァールスよ、余の軍団を返せ!」と嘆いたという。この戦いのあった場所は長く不明であったが、1987年、イギリスのアマチュア考古学者が金属探知器でローマ時代のコインの団塊を発見し、89年から本格的な発掘が行われ、この時の戦場の位置がはっきりした。北西ドイツのオスナブリュック市の近郊のカルクリーゼという山村で、伝承の地トイトブルクの森からはすこし離れていた。現在はこの戦いは「ウァールスの戦い」というのが普通になっている。<坂井榮八郎『ドイツ史10講』2003 岩波新書 による>

実際の戦場の位置

 1987年に発見された、アウグストゥス時代のローマ軍とゲルマン人の戦いがあった実際の場所というのは、ドイツ北西部、ニーダーザクセン州の古都オスナーブリュック市の郊外、カルクリーゼという小村付近であった。その発掘で、ローマの貨幣、武具、馬具、そして傷ついた壮年男子の人骨が大量に発見され、ほぼここが古戦場と認定された。現在は博物館も建てられている。此の地はトイトブルクの森から32キロメートル離れており、「トイトブルクの森の戦い」という呼称も正確ではないことが判明した。しかし、アウグストゥス治世晩年にローマ軍が、ライン川から155キロ、ローマから1600キロ離れたここまで来ていたことは確認できる。<南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013 岩波新書 p.16>

参考 「トイトブルクの森」戦場跡

 2000年3月、確認されたトイトブルクの古戦場を日本人として初めて(?)訪問したドイツ史家坂井榮八郎氏の文章がある。
(引用)現地名「カルクリーゼ」という丘陵山林地帯にあるその場所は、オスナブリュックの北約20キロ。地形図から分かるように、北にかつて湖沼だった湿地帯、南が小高い山に囲まれたゆるい斜面の土地で、当時ゲルマニア統治を委ねられていたローマの将軍ウァルスの軍は、この山裾を東から西に抜けようとしていた。そこを山の森に隠れていたアルミニウスのゲルマン部族軍が急襲し、三軍団約1万5千のローマ軍を壊滅させたのである。戦闘はここだけでなく広きにわたって三、四日も続いたと伝えられるが、主要な戦闘がここで行われたことは発掘物の出土状況からあきらかで(中略)、多数の人骨が武具とともにまとめて埋葬されているのもいくつか見つかっている。それは、この戦闘の六年後、紀元15年にこの戦場跡を訪ねたローマの将軍ゲルマニクスの軍が、そこに散乱していたローマの将兵の骨を集めて葬ったというタキトゥスの『年代記』の記述とも一致している。なおこの戦場跡がその戦いの跡だというその同定の決め手になったのは、ここから出土したコインがすべて紀元9年以前のもので、中に「ウァルス」の刻印があるものが含まれていたことによる。いまは「ウァルスの戦い」の戦場遺跡として、学会で国際的にも認められている。<坂井榮八郎『ドイツの歴史百話』2012 刀水書房 p.5-7>
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書籍案内

坂井榮八郎
『ドイツ史10講』
2003 岩波新書

南川高志
『新・ローマ帝国衰亡史』
2013 岩波新書

坂井榮八郎
『ドイツの歴史百話』
2012 刀水書房