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ケルト人

ローマがアルプス以北に進出する以前からのヨーロッパの先住民族。鉄器文化の段階に達しており、独自の美術様式や宗教を発達させていたが、ローマ帝国の支配を受ることによって独自性を失い、さらにゲルマン人に圧迫されたためアイルランドやスコットランド、ウェールズなどの一部に残るだけになった。

 ケルト人 Celt は、アルプス以北のヨーロッパに広く居住していたインド=ヨーロッパ語族の一派で、原住地はライン川やドナウ川上流域の南ドイツと考えられている。西ヨーロッパに鉄器文化をもたらし、高い農耕・牧畜技術を持っていた。彼らは精悍な騎馬民族として活動するようになり、前8世紀ごろから、大ブリテン島イギリス)、ガリア(後のフランス)、イベリア半島(スペイン)、アナトリア(小アジア)、ギリシアにも進出したが、多くの部族に分かれ、対立をくり返していた。前4世紀初めにはケルト人の一派が北イタリアに侵入し、さらに南下して一時は都市国家ローマを占領(前390もしくは387年)している。この時ケルト人は賠償金のみを得て撤退したが、これがローマにおける貴族と平民の対立を先鋭にし、前367年のリキニウス・セクスティウス法の制定の背景となった。前3世紀にはバルカン半島に侵入し、ギリシアを経て前278年には小アジアまで至った一派もあった。新約聖書のパウロの書いた『ガラテア人への手紙』のガラテア人とはこのケルト人の子孫だという。
 そのケルト文化はヨーロッパ各地に遺跡として残されており、ヨーロッパ鉄器文化の後半期にあたりラ=テーヌ文化(ラ=テーヌはスイス西部)といわれている。また、キリスト教普及以前の彼らの信仰はドルイドという司祭に支配された呪術的な宗教であった。ドルイド信仰はキリスト教以前のヨーロッパの宗教の古層として、現在のフランス・ドイツ西部・スイスから北イタリアに広く残存しいる。

ケルト系の人々

ガリア人 ローマはケルト人を「ガリア人」といい、その居住する地域を広くガリアととらえ、アルプス山脈をはさんで、その手前をガリア=キサアルピナ(アルプスの手前のガリアの意味)と向こう側をガリア=トランサルピナ(アルプスの向こう側のガリアの意味)と呼んだ。現在のスイス西部にはヘルウェティイ族という勇猛な部族がいた。イタリア半島の統一を進めたローマは、次第にガリアの地にも侵出し、征服していった。ガリア=キサルピナは前2世紀までに属州とされ、ガリア=トランサルピナの南部も前1世紀までに属州となった。残った狭い意味のガリアには、前1世紀中ごろのカエサルによるガリア遠征が行われ、その結果としてガリア人(ケルト人)はローマの支配下に組み込まれた。ついで、ライン川以東から大移動してきたゲルマン人に征服され、ローマ人やゲルマン人に同化していった。しかし、現在でもアイルランド・スコットランド・ウェールズ・ブルターニュなどにはケルト系の文化が残存している。ローマ時代のガリア(現在のフランス)に居住していたケルト人に関してはカエサルの『ガリア戦記』が伝えている。
ブリトゥン人 ブリテン島のケルト人はいくつかの部族に別れていたが、その中で最も有力だったのがブリトゥン人であった。そのため、この島に入ったローマ人は、この地をブリトゥン人の土地の意味で、「ブリタニア」と呼び、属州として支配した。5世紀にブリテン島にゲルマン人の一派のアングロ=サクソン人が侵攻してくると、ブリトゥン人は粘り強く抵抗を続けた。その時のブリトゥン人の英雄として、アーサー王物語が生まれた。しかし、ブリトゥン人は次第に西方の高地地帯に逃れ、さらに海峡を渡って大陸に移住した。その地が現在のフランスのブルターニュ地方であり、その地と区別するために、島をの方を大ブリテン(グレートブリテン)と言うようになった。ブリテン島西部のウェールズにはケルト系ブリトゥン人の住民も多く、1536年にはイングランドに併合されたが今も分離独立の動きは続いている。
ゲール人/ゲール語 アイルランドのケルト人をゲール人という。この語はローマがブリトゥン人をグイールと呼んでいたことから、アイルランドのケルト人がみずからをゲール人と言ったことによるという。彼らは前5世紀ごろ、アイルランドに移住し、鉄器文明をもたらすと共に、ドルイド信仰など独自の文化を持っていた。ローマの支配は及ばなかったが、5世紀にキリスト教化が進み、カトリック信仰が定着した。8世紀からはヴァイキングが海岸地方に侵攻し、一部は都市に定住するようになって混血が進んだが、ゲール人の独自の言語はゲール語として存続した。しかし12世紀のヘンリ2世に始まるイングランド王によるアイルランド侵略により、次第にイングランドからの入植者に支配されるようになった。近代において、アイルランドは特に宗教的自由を求めてイギリスからの分離独立を求める運動が激化する。アイルランド民族運動の柱の一つにはゲール人の言語であるゲール語の復興が掲げられ、1893年にはダグラス=ハイド(後のアイルランド初代大統領)は「ゲール同盟」を結成している。1937年にアイルランド自由国は国号をエールに変更したが、それはゲール語でアイルランドを意味していた。1949年に成立したアイルランド共和国もゲール語を公用語として掲げているが、実際に日常的に使われているのは西部の一部に限られている。
スコット人  アイルランドの北東部海岸地方にいたゲール人の一派のスコット人は、6世紀ごろブリテン島の西海岸を荒らし回るようになった。古アイルランド語で「荒らす」、「略奪する」ことを「スコティ」と言ったことから、彼らはスコット人と言われるようになった。スコット人はやがて同じケルト系のピクト人とともにブリテン島北部に定住し、その地は9世紀にはスコットランドと言われるようになった。彼らはスコットランド王国(最初はアルバ王国と呼ばれた)をつくり、その南部のアングロ=サクソン人、ノルマン人の建てた国と長く抗争しながら、独自の文化を形成していった。<君塚直隆『物語イギリス史上』2015 中公新書 p.11>

Episode 鉄のタイヤを発明したケルト人

 今から2000年ほど前、現在のドイツ南部からルーマニアにかけての地域から、フランスやイタリアからイギリスの一帯へかけてケルト人が移動してきた。ローマ人からは野蛮人と見下されていたケルト人であったが、車輪の発展に大きな貢献をしたのが彼らだった。
(引用)ケルト人は木で作った車輪の寿命を延ばすために、動物の皮や木のタイヤの代わりに鉄のタイヤを取りつける方法を発明した。まず、車輪と同じ幅の鉄板の帯を用意して、木の車輪より直径がほんのわずかだけ小さい輪を作る。この輪を加熱すると熱膨張によって、鉄板の輪の直径は車輪より若干大きくなる。熱い鉄板の輪の中に木の車輪を置いてから水をかけて冷やすと、鉄板の輪は収縮して元の大きさに戻り、木の車輪を強く締めつけることになる。車輪は締めつけられることによって、より頑丈になるとともに、鉄板の輪が車輪からはずれることもなくなる。この鉄のタイヤを取りつけた車輪の寿命は、従来の動物の皮や木材のタイヤをつけた車輪よりはるかに長くなった。<酒井伸雄『文明を変えた植物たち』2011 NHKブックス p.58>
 4輪の馬車を考案し、しかも前輪に車軸ごと向きを変えられる工夫を加え、容易に舵取りができるようにしたのもケルト人である。この鉄タイヤが空気入りのゴムのタイヤに取って代わられるのは、ようやく19世紀末、自動車が普及してからであった。

ケルト論争とヨーロッパ統合

 ケルト人とは、主としてローマ人がアルプス以北の未開の部族に対する総称として用いられていたことばであり、自らを「ケルト」と称した人々がいたのではないことに注意する必要がある。また、アイルランドやウェールズの一部に存在する少数民族とされていたケルト人が、全ヨーロッパに広く存在していたといわれるようになったのは、20世紀の終わりごろのことであり、それはヨーロッパの統合という政治的動きと同調していたという指摘もある。ところが、最近では特にイギリスの考古学者や歴史学者の間で、ヨーロッパ全域に広がるようなケルト文化の存在、さらにケルト人のブリテン島への移住、などに対する否定的な見解が出されるようになっている。これはイギリスのEU離脱の動きに歩調を合わせているのかも知れない。
(引用)近代世界で「ケルト」は、長らくヨーロッパの片隅に生き残る少数者の言語や文化を指すものとして理解されてきたが、1991年にヴェネツィアでのケルトに関する大きな美術展で、ケルトをヨーロッパ連合の先駆的な存在として位置づけるメッセージがなされるなど、ヨーロッパ統合が進む1990年代には、逆に全ヨーロッパをおおう存在として、政治的動向を背景に意義づけられるようになってきた。しかし、これに逆らうかのように、イギリスの考古学者達の一部が、「ケルト」という統一的な文化集団は存在しないと主張したために論争が起こった。「ケルト」を否定する見解は、「移住」の意義を重視しない流れの中では不自然ではないが、激しい論争に至ったのは、その背景に政治が絡んでいたからと思われる。<南川高志『海のかなたのローマ帝国――古代ローマとブリテン島』2003 岩波書店 p.81>
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書籍案内

南川高志
『海のかなたのローマ帝国
古代ローマとブリテン島』
増補版2015 岩波書店


初版は2003年。ブリテン島の「ローマ化」の意味を問う。ケルト論争についても詳しい。


原聖
『ケルトの水脈』
興亡の世界史
2016 講談社学術文庫