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ローマ帝国

前1世紀末~4世紀に分裂するまで地中海世界を支配した大帝国。

 古代ローマの歴史の中で、ローマ共和政と区別し、前27年の初代皇帝アウグストゥスの即位から、実質的には395年の東西分裂まで、形式的には1453年のビザンツ帝国滅亡まで存続したのが「ローマ帝国」、あるいは「帝政ローマ」である。
 ローマ帝国の範囲は全地中海世界に及び、イタリア半島以外の領土として属州を支配した。最盛期には北は現在のイングランドと大陸ではライン川からドナウ川を結ぶ線、南はエジプトなどアフリカ北岸、東はメソポタミア、西はイベリア半島に及んでいた。このような広大な領土を支配し、多くの民族を支配する事実上の世界帝国となったのは、まだ共和制時代であった前1世紀末のことであるが、一般にローマ帝国は前27年のアウグストゥスの即位以降とされる。

ローマ帝国の時期区分

 ローマ帝国はローマ皇帝が統治する専制国家であったが、その支配のあり方の違い、および帝国の分割のあり方などから、いくつかの時期に区分することが出来る。
・元首政の時期 当初の政治は元首政(プリンキパトゥス)という皇帝も市民の第一人者として権威を持ち、形の上では元老院も機能している共和政の伝統を強く残した体制であった。
・ユリウス=クラウディウス朝 アウグストゥス以降の第2代ティベリウスを経て第5代ネロまでは、カエサルとアウグストゥスの血筋をひく者が皇帝となったので、ユリウス=クラウディウス朝という。しかし、第3代のカリグラや第4代のネロのような暴君も現れ、不安定であった。
・フラウィウス朝 ネロの自殺に伴い、騎士階級の出身のウェスパシアヌスが皇帝に選出され、フラヴィウス朝となった。混乱の収拾、財政の再建に努め、一方ではコロッセウムなどの公共建築を造営して市民の「パンと見世物」の要求に応えようとした。コロッセウムが完成したのは次のティトウスの時だが、その79年にはヴェスヴィオ火山の噴火によりポンペイが埋没するという災害も起こっている。次のドミティアヌス帝の時にふたたび財政難に見舞われ、元老院の反対を押し切って重税を課し、反対派を処刑する恐怖政治を行ったため、96年に暗殺されてしまった。かわって元老院の長老議員であった老人ネルウァが皇帝に指名された。
・五賢帝 1世紀末から2世紀の五賢帝の時代にその支配は安定し、全盛期を迎えた。この時代は地中海世界に「ローマの平和」(パックス=ロマーナ)が実現された時代である。五賢帝とはネルウァトラヤヌスハドリアヌスアントニヌス=ピウスマルクス=アウレリウス=アントニヌスを言う。最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌスのころ、東方のパルティア、北方のゲルマン人のローマ領への侵攻が激しくなり、不安定要素が顕在化していたが、後継者コンモドゥスは遊興にふけり、乱脈な政治をおこなって信頼をなくし、親衛隊にも裏切られて暗殺された(192年)。
・セウェルス朝 コンモドゥス帝暗殺後、各地に軍団に推されて皇帝を称するものが現れたが、その中からアフリカ出身のセプスティウス=セウェルスが覇権を握り、193年に即位した。属州の軍団の力が強まったためローマの地位は相対的に低下し、そのような状況に応じてその子カラカラはローマ市民権を帝国内のすべての自由民に与える措置をとった。またカラカラは大浴場を建設して市民の人気を取ろうとしたが、東方遠征中の216年に親衛隊の陰謀によって暗殺されてしまった。その後、セウェルス家の内紛が続き、皇帝暗殺がふたたび起こるなどその権威は衰え、セウェルス=アレクサンデルが235年に暗殺され、セウェルス朝は終わりを告げた。このようなセウェルス朝の混乱から「3世紀の危機」といわれる状況となった。
・軍人皇帝 235年、皇帝となったマクシミアヌスから約50年、いずれも軍人出身者が、軍隊の支持で皇帝となる軍人皇帝時代となった。彼らの地位は軍隊の意向によって左右され、反対派によって暗殺されるということが相次いだ。その背景には、帝国を支えていた奴隷制を基盤としたラティフンディア(大土地所有制)と多くの属州が3世紀頃から崩れるという、皇帝の政治(帝政)の基盤がくずれたということなあった。さらに外的な要因として東方で新たな勢力としてササン朝ペルシアが台頭、また北辺からのゲルマン人がそれぞれローマ帝国領に侵入し、軍隊の発言権が強まってきたことも上げられる。
・専制君主政の時期 軍人皇帝時代をへて帝政の性質も大きく変化し、3世紀末のディオクレティアヌス帝の時から専制君主政(ドミナトゥス)という、共和政の伝統を無視し、皇帝は神として君臨する体制となり、同時に帝国の四分統治が導入された。
・コンスタンティヌス帝の統治 4世紀のコンスタンティヌス帝は帝国を再建したが、新たな精神的な柱として313年にミラノ勅令を出して、ローマ帝国におけるキリスト教を公認し、また都をローマからコンスタンティノープルに移した。こうして「ローマ帝国」と言いながら、その支配の基盤は次第に東方に軸足を置くようになった。コンスタンティヌス帝は325年にニケーア公会議を招集し、アタナシウス派を正統としてキリスト教の教義の統一を図った。
・キリスト教の国教化 その後、一時ユリアヌス帝の時にキリスト教が否定されたが、信徒は増大を続け、392年にテオドシウス帝がアタナシウス派のキリスト教の国教化し、他の宗教を禁止した。
・帝国の東西分裂 4世紀末のテオドシウス帝の死後、395年に東西に分裂し、ラヴェンナ・ローマを中心としてイタリア半島とその周辺を支配する西ローマ帝国と、コンスタンティノープルを中心として東地中海・バルカン半島小アジアを支配する東ローマ帝国とが成立した。
・西ローマ帝国の滅亡   西ローマ帝国はその後もゲルマン人の侵攻を受けて衰え、476年にオドアケルによって西ローマ帝国は滅亡する。東ローマ帝国は、もはやローマから離れたところを都とし、実質的にギリシア化してビザンツ帝国と言われるようになるが、理念的にはローマ帝国そのものであった。18世紀のイギリスの歴史家ギボンの大著『ローマ帝国衰亡史』も五賢帝時代からビザンツ帝国の滅亡までを対象としている。

その後の東ローマ帝国

 東ローマ帝国は5世紀のユスティニアヌス大帝の時最盛期を迎え、一時地中海世界全域支配を回復するが、その後西地中海は再びゲルマン人の国家が建設され、東ローマ帝国の支配はギリシア・小アジアを中心とした東地中海域に限定されるようになって、ギリシア化が進み、7世紀からはビザンツ帝国と言われるようになる。その後、東に隣接するササン朝朝の抗争で次第に国力を失い、特に7世紀以降はイスラーム教勢力に圧迫されるようになって次第にその領域を狭め、一時は首都が十字軍に占領されるという危機を迎えながら、1000年にわたる命脈を保ち、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされる。

・中世ヨーロッパ世界とローマ帝国

 ヨーロッパ世界においてはローマ帝国およびローマ皇帝は全ヨーロッパを統治する権能を持つ厳かな名称とされ続け、フランク王国のカール大帝、東フランクのオットー大帝のように「ローマ皇帝」の冠を戴き「ローマ帝国」を復活させるところに全ヨーロッパに及ぶ支配権の根拠を求めている。そして中世ヨーロッパの「神聖ローマ帝国」にもその理念は復活してくる。神聖ローマ帝国は「ローマ」の名を冠しながら、ドイツを中心とした国家であった。そして、その名称故に常に皇帝はイタリア経営を目指したため、ドイツは分裂が続き、また皇帝はローマ教皇との度重なる抗争を続けることとなった。これがヨーロッパ中世史の軸の一つである皇帝と教皇の対立である。

ローマ帝国と他の文明圏

 ローマ帝国が地中海世界で繁栄した1~2世紀は、東アジア世界においては漢帝国(後漢)の時代であった。後漢の記録には、大秦王安敦の使者がが現在のベトナム北部まで来て交易を求めたという。大秦王安敦はマルクス=アウレリウス=アントニヌスのことと考えられている。このユーラシア大陸の東西に時を同じくして出現した世界帝国は、直接交渉を持つことはなかったが、おりから活発となった陸上でのシルクロードと、インド洋の季節風を利用した海の道を通じて、交易が行われていた。また、1~2世紀の北インドのクシャーナ朝や南インドのサータヴァーハナ朝とも盛んな交易があったらしく、インド各地からローマの金貨が発掘されている。さらに東南アジアのメコン下流にあった港市国家の扶南の遺跡であるオケオ遺跡からもローマの金貨が発見されている。7世紀以降のイスラーム世界と唐の交易ほど密ではなかったが、ローマと漢の登場は、世界の文明史の展開でも重要な契機であった。

ローマ帝国の「帝国」の意味

 一般に「ローマ帝国」は、アウグストゥスが皇帝となった前27年以降をさし、それ以前の「共和政」と区別しているが、「帝国」という用語は必ずしも「皇帝の治める国」を意味するものではない。現代では「帝国主義」諸国のこと、あるいは「アメリカ帝国」とか、ソ連社会主義「帝国」などのような使い方もある。「帝国」を意味する英語の empire はラテン語のインペリウムからきた言葉で、皇帝の治める国という意味ではなく、ローマ共和政の時代からローマによって支配されている「くにぐに」から成る一つの世界をあらわすものとして使われてきた。従って共和政の時代でも地中海支配を成立させた前2世紀の中頃から「ローマ帝国」という場合もある。
 ラテン語のインペリウムとは、「命令」という意味であり、さらに「ローマの命令が行われる地域」の意味となった。共和政時代にすでにローマの命令が他の国々に及ぼされ「ローマ帝国」と意識されていた。ただし、そのローマと服属国の関係を、近代の「主権国家」の観念でとらえると時代錯誤となる。古代においては「主権」の概念がないため、例えばシチリアの諸国は属州となったが、「主権を接収された国」という意味の属国ではない。「主権を保全する国」という意味の独立国でもない。「自由」なローマ国民が「自由」な国々を「友邦」として「支配」するのがこの時代の「ローマ帝国」であった。これを「古典的ローマ帝国」と呼ぶ。<以上の説明は、吉村忠典『古代ローマ帝国』1997 岩波新書 p.2-4、および p.140-146 を参照>
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ノートの参照
1章3節 エ.ローマ帝国
書籍案内

吉村忠典
『古代ローマ帝国』
1997 岩波新書

青柳正規
『皇帝たちの都ローマ』
1992 中公新書

青柳正規『ローマ帝国』
2004 岩波ジュニア新書