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ガリア戦記

カエサルのガリア遠征の記録。ケルト人、ゲルマン人に関する重要な史料となっている。

 ローマの将軍カエサルは、前58年から51年まで、ローマ軍を率いてガリア(現在のフランス)に遠征した。このガリア遠征のときの戦いの記録を、彼自身が書いたとされるのが『ガリア戦記』である。たがいに争うケルト人部族(ガリア人)や、その争いに乗じてガリア進出をはかるゲルマン人部族との戦いと、前55,54年に行われたブリタニアへの上陸作戦の経緯が語られている。タキトゥスの『ゲルマニア』と並んで、ローマ時代のゲルマン社会を知る上での貴重な資料となっているばかりでなく、ラテン語の名文としても知られている。
 手近に読むことの出来る古典であり、主な訳書には岩波文庫版(近山金次訳)と講談社学術文庫版(國原吉之助訳)がある。いずれかを手にして読んでみるといいだろう。訳文としては前者の方が古いが、読みやすい。後者は解説と訳注が豊富。特にケルト軍・ゲルマン軍とローマ軍の城塞の構造や武器などについて図入りで解説されていて面白い。最近の訳書としては、石垣憲一訳の平凡社ライブラリー版、中倉玄喜訳のPHP研究所版など、数種類がある。

『ガリア戦記』はなぜ書かれたか

 『ガリア戦記』はラテン語の名文とされている。カエサルは単なる将軍、政治家ではなく、弁論に長け、自ら詩を書くなど文才があったことは確かである。しかし、彼がなぜこの書を書き、出版したのか、どのように書いたのかは古来さまざまな議論があったようだ。まず出版されたのは遠征の終わった前52年であったが、その原稿は遠征中に書いたという説と遠征が終わって一気に書いたとう説がある。どうやら後者の方が正しいらしいが、カエサルは戦いの状況を常に元老院ローマの支持者に報告するため常に行動記録を口述して手紙にしていたので、それらを材料にしたのであろう。それを公刊した意図は、この遠征を不当なものだと非難する声が元老院などにあったのに対して、戦闘の困難さを訴え、勝利にはたした将軍としての働きを明らかにするという、いってしまえばカエサルの自己宣伝と自己弁護のためであった。そのため、カエサルにとって不都合なこと(例えばガリアの神殿の奉納物を略奪したとか、遠征で巨大な富を築いたとか)にはふれていない。しかし、その記述は正確で、戦闘の悲惨なありさまもかくさず記述している。客観性を持たせるためか、文章は一人称ではなく、“カエサルは・・・”という三人称で書かれている。そこにこの書の単なる自己宣伝にとどまらない、歴史の記述としての価値が認められている。<主として、國原吉之助氏の講談社学術文庫版『ガリア戦記』の解説による>

Episode 馬上での口述筆記させたカエサル

 『ガリア戦記』を読むと、それぞれの戦闘の経緯や状況が詳しく書かれていることに驚くが、もとの記録はどうやら戦場のカエサルの口述筆記にあったらしい。プルタルコスの『英雄伝』のカエサル伝にはこんな記事がある。
(引用)すくなくとも、睡眠はたいてい車とか轎(かご)の中でとって休息時間を行動にあてたし、日中は、諸所の守備隊や町や陣営を巡視したが、そのときには、動く車の中で口述をそのまま筆記できる練習をつんだ奴隷を一人そばに坐らせ、また背後には剣をもった兵士を一人立たせておいた。・・・また、馬を乗りこなすことはカエサルには子供のときから易々たるものであった。つまり、両手をうしろにまわして背中に組んだまま、全速力で馬を走らせるのをいつもやっていたのである。その遠征にあたっては、それに加えて馬に乗りながら手紙の文句を口述して、それを二人の書記が同時に書きとれるくらい、否、オッピウスのいうところでは、二人以上の書記が、なんとか書き取れるようにする練習をつんだのであった。なお、手紙を書いてローマ市内の友人たちと連絡し合う工夫をしたのは、カエサルがはじめてだといわれているが、それは用事が多く、ローマの町が広いため、緊急の事柄について直接会って話し合える機会を持てなかったからである。<プルタルコス/長谷川博隆訳『英雄伝』下 ちくま学芸文庫 p.195-196>
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ノートの参照
5章1節 イ.ゲルマン人の大移動
書籍案内

近山金次訳『ガリア戦記』
岩波文庫

國原吉之助訳『ガリア戦記』
講談社学術文庫

プルタルコス『英雄伝』下
ちくま学芸文庫