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ガリア

ローマ時代の北イタリアからフランスにおよぶ地域の呼称。ケルト人が居住していたが、徐々にローマの属州に組み込まれる。

 本来のガリアは、北イタリアのポー川流域(後のロンバルディア)からアルプスを越えて現在のフランスの全域を含み、その地方全域をローマ人がガリアと呼んでいた。その境界はピレネー山脈とライン川である。ガリアには、ローマの勢力が及ぶ前の前7世紀ごろからケルト人が居住していたが、ローマ人は彼らをガリア人と呼んだ。ケルト人はこの地でラ=テーヌ文化と言われる鉄器文化を形成していた。

ガリア南部の属州化

 ガリアのうちアルプスより南の北イタリアを、アルプスのこちら側という意味のラテン語で「ガリア=キサルピナ(キスアルピーナ)」と呼んでいた。ガリア=キサルピナは第2次ポエニ戦争(218~201年)と並行してローマ軍が占領し、前2世紀前半までにはローマの属州となったため、ローマ化が進み、アルプス以北の狭い意味のガリアが一般にガリアと言われるようになる。残った現在のフランスに当たるガリアでは、ローマは前121年に南ガリアのケルト人を征服して、属州ガリア=ナルボネンシスとした。この地域はその後、単に属州を意味するプロヴィンキアというラテン語から、プロヴァンスといわれるようになる。

カエサルのガリア遠征

 アルプス以北のガリア人の部族は、ライン川の向こう側のゲルマン人の侵入に悩んでいたこともあって、ローマに服属することを望むものと、あくまで独立を望むものとが対立している状況であった。前58年、現在のスイスにいたケルト人ヘルウェティ族がゲルマン人の圧迫を逃れて西の平野部に移動を開始、カエサルは南ガリアのローマ属州がゲルマンに脅かされる恐れがあるという理由でそれを認めず、阻止しようと出撃した。ここから前58~51年のガリア遠征が始まる。カエサルは自分の基盤であった属州ガリア=キサルピナから徴兵した兵士と、友好的なガリア人部族から集めた部隊によって、反ローマ部族を次々と制圧し、さらにドーヴァー海峡を渡ってブリタニア(現イギリス)にまで進出した。またライン川を越えて侵入してきたゲルマン人を追ってライン川を渡って戦い、ドーヴァー、ライン川を渡った最初のローマ軍となった。さらにカエサルは前55年と54年にはドーヴァー海峡を渡り、ブリテン島に進出したが、ブリトゥン人の抵抗を受け、恒常的支配権を立てることはできなかった。ガリアに戻ったカエサルは、最後にケルト人の全部族に結束してローマに抵抗することを呼びかけたウェルキンゲトリクスの挑戦を受けることとなる。カエサルのローマ軍は前52年のアレシアの戦いで敗北し、ほぼガリア遠征は終わった。カエサルによるこの記録が『ガリア戦記』であり、前1世紀のガリア人・ゲルマン人の社会に関する資料となっている。

ローマの属州支配

 ローマ帝国を成立させたアウグストゥスの時、残るガリアが、北からベルギカ、ルグドゥネンシス、アクィタニアの三つの属州に分けられ、すでにあったナルボネンシス(プロヴァンス地方)とあわせて、現在のフランスは4つのローマ属州として支配されることになった。それ以後、ガリアのローマ化はすすみ「ローマの平和」が及んで、族長層にはローマ市民権が与えらたが、部族員には税負担が課せられた。ローマ帝国はライン川とドナウ川をその国境として、たびたびその向こう側のゲルマン人を撃とうとして軍を派遣したが、ガリアはその兵力や資材を負担させられた。この時代をガロ=ローマ時代というが、その時代に後にパリに発展するルテティアなどが建設された。また、フランス各地には水道橋として有名なガール橋などのローマ時代の遺跡が現在でも数多く残っている。

ゲルマン人の移動

 4世紀にゲルマン人の大移動が始まると、多くのゲルマン人諸部族がライン川を越えてローマ領ガリアに侵入してきた。彼らは先住民のケルト人と支配者ローマ人を次第に駆逐し、5世紀にブルグンド王国フランク王国というゲルマン系諸国が生まれた。ローマ帝国は東西分裂、西ローマ帝国の滅亡という経過の中で後退し、フランク王国は534年にブルグンド王国を併合してガリアを統一、さらにイベリア半島やライン川東部の現在のドイツ一帯まで勢力を伸ばした。こうしてガリアの地はゲルマン人の地域と化したが、ローマ人のラテン文化はなお強く影響を留めている。またケルト人はブルターニュ半島の奥地などに押しやられ、現在までその文化伝統を維持している。
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1章3節 ウ.内乱の一世紀