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ブリタニア

43年にローマが現在のイギリス(ブリテン島)を支配して置いた属州。5世紀にアングロ=サクソンの移住が始まり、ローマは撤退した。

 大ブリテン島には前7世紀頃からケルト人が居住していたが、紀元前1世紀にローマのカエサルが侵出した。ローマはケルト人の中で最も有力だったブリトゥン人の名から、この地をブリタニアと呼んだ。  カエサルはガリア遠征の途次に、前55年と54年の二度、ブリタニアに上陸し、制圧を試みた。しかし、ブリトゥン人の激しい抵抗に遭い、また兵員や食糧の補給も困難であったために、拠点を設けて支配を続けることはできなかった。ローマ帝国の時代と成り、紀元後43年にクラウディウス帝が軍隊を派遣して、属州とすることに成功した。その拠点としてロンドニウム(現在のロンドン)などの都市を築いた。その他、ローマ時代の遺跡には、ハドリアヌス帝が北方のケルト人の侵攻に対する防衛のために築いた長城などがある。
 属州ブリタニアはローマの衰退とともに衰え、409年についに撤退した。5世紀のゲルマン人の大移動の時期には大陸からゲルマン人の一派アングロ=サクソン人が移住を始め、6世紀ころまでにはブリテン島の南西部に定住し、ケルト系ブリトゥン人とも同化し、この地はアングル人の土地という意味の「イングランド」と呼ばれるようになる。 → イングランド王国  →イギリス(1)

参考 地名に見るローマ文化

 現代のイギリスの都市、チェスター Chester、マンチェスター Manchester、ウィンチェスター Winchester、カンカスター Lancaster、などに見られる -chester、-caster は、ラテン語の castra(城砦に囲まれた町)に由来する。<寺尾盾『英語の歴史』2008 中公新書 p.53>

Episode カエサルの見た英国紳士の先祖

 カエサルの『ガリア戦記』には、大陸のガリア人やゲルマン人との戦いと並んで、ブリタニアのブリトゥン人との戦闘についても詳しく述べている。ブリトゥン人は現在のイギリス人を形成している先祖の一部であるが、彼らは現在の文明化された英国紳士とはかけ離れた印象をあたえる。以下、同書からカエサルの見たブリトゥン人の様子や戦いぶりを拾ってみよう。
・カエサル軍の上陸を迎え撃つブリトゥン人
(引用)ところが、原住民は、ローマ軍の意図を見通し、騎兵隊と戦車――これはブリタニア人がたいていどの戦闘でも使っていた武器である――を先発させ、残りの兵でわが軍の後をつけ、船から上陸するのを阻止しようとした。ローマ軍は……きわめて苦しい立場に追いこまれた。味方の船が大きいため、沖の深いところでないと停泊させられなかった。わが兵は、このあたりの地理に不案内であり、両手をふさがれ大きくて重い武器の負担に圧迫されていた。船から飛びこむと同時に、波の中に足場を確保し、敵とわたり合わねばならなかった。一方、敵ときたら、乾いた岸辺から戦い、あるいはせいぜい海の中へ少しはいってくるだけで、五体は荷物で邪魔されずに、案内に通じた場所で思う存分飛道具を投げ、海戦によくならした馬を縦横に駆りたてた。こうした事情から、わが軍は非常に怯えていたし、こうした戦闘形式はまったく未経験だったから、いつも上陸の戦いで見せていたような迅速果敢な活躍と烈々たる闘魂は、発揮されなかった。<国原吉之助訳『ガリア戦記』1994 講談社学術文庫 p.141-142>
戦車とは、馬に引かせた二輪の乗物を兵士が操作する。ここで述べられているのは、上陸戦の困難さであるが、ふと考えると、日本の元寇の時のモンゴル軍もこんな風だったのかもしれない。
・ブリタニア人の様子
(引用)ブリタニアの全島民で一番開化しているのは、カンティウムに住む人たちだ。この地域は全部、海岸地方にあり、生活様式はガリアとさほと違っていない。内陸部の住民は、ほとんど穀物を蒔かない。牛乳と肉を食べ、毛皮を着ている。一方ブリタニア人は例外なく自分の体をたいせいで染める。これは青を発色する草である。このため、彼らは戦場で余計にものすごく見えるのである。髪はのばし放題で、頭と上唇のあたりを除くと、体のどの部分も剃る。妻は十人か十二人ずつの仲間で、それもとくに兄と弟とか、父と子とかを共有する。こうした結合から生まれた子は、処女が最初に手をとって導かれて行った男のものとみなされる。<国原吉之助訳『ガリア戦記』1994 講談社学術文庫 p.165>
時代は違うが、たしかメル=ギブソン主演の映画『ブレーブハート』には同じケルト系のスコットランド兵が青い染料を体に塗りつけていた。なお、カンティウムは、タメシス川(現在のテームズ川)下流域のロンドンを含むあたり。「たいせい」(大青)とは藍色の染料の取れる植物。

ブリタニアの反乱

 属州ブリタニアはローマの穀倉として重要であった。その拠点ロンドンは、ローマ向けの穀物の積み出し港として栄えた。ローマの進んだ農法を導入した大農園が作られたが、入植者としてローマ人と一部のケルト系原住民は豊かになっる一方で、収奪された多くの農民が貧しくなると言う貧富の差が広がった。
 ブリタニアに駐屯するローマ軍団の存在によって「ローマの平和」は実現したが、1~4世紀の属州支配のなかで、たびたび反ローマの蜂起があった。例えば、60年にはイケーニー族の女王ボウディッカは、他の部族にも呼びかけてローマ人入植者の収奪に対する大規模な反乱を起こしている。結局はローマ軍によって鎮圧され、ボウディッカも自殺を遂げたが、近代になって彼女はイギリスの国民的英雄としてその想像図が描かれるなど、知られるようになった。<指昭博『図説イギリスの歴史』2002 河出書房新社 p.10-12>
 このボウディッカ(ブーディカ)の反乱(62年とも)では、ロンドンは焼き払われ、そのあとに新たな都市が建設されたという。

Episode ローマ時代の温泉

 イギリスのバース Bath は、ローマ時代からの温泉地として知られている。現在の建物は、ほとんどが18世紀に古代ローマ風のパラディオ様式に基づいて整備されたものであるが、湯船の床などはローマ時代のものが残っている。この温泉地は、18世紀には上流階級の一大社交都市として栄え、今も多くの観光客を集めている。この地名の Bath から、英語の風呂 bath がうまれたともいうが、それはどうやら逆で、温泉であることから地名がつけられたようだ。ともかく、ハドリアヌスの長城と並んで、イギリスに残るローマ時代の遺跡の一つといえる。
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ノートの参照
5章1節 キ.外敵の侵入と西ヨーロッパの混乱
書籍案内

國原吉之助訳『ガリア戦記』
講談社学術文庫

指昭博
『図説イギリスの歴史』
2002 河出書房新社

写真と図版が豊富。説明も要領を得て、手ごろなイギリス史の概説書となっている。