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ルッジェーロ2世

1130年、南イタリアに両シチリア王国を建設したノルマン人の王。シチリア島パレルモに宮廷を置き、南イタリアを支配、さらに対岸のチュニジアにも支配をのばした。またローマ教皇、神聖ローマ皇帝とも戦い、地中海の中央に独自の政権を樹立。そのもとでパレルモは12世紀ルネサンスが繁栄した。

 南イタリア・シチリア島シチリア王国(両シチリア王国)を建国したノルマン人の王。父の代に南イタリアに進出したノルマンディ出身のノルマン騎士で、父ルッジェーロ(1世)がシチリアをイスラーム勢力から奪ってシチリア伯となった後、ルッジェーロ2世として南イタリアとシチリア島の両方を制圧し、ローマ教皇から王位を認められた。1130年のクリスマスにパレルモ(北シチリアの都市)で戴冠式を挙行した。 → ノルマン人の地中海進出
 なおルッジェーロ Ruggiero はイタリア語読みで、ラテン名ではロゲリウス、フランス語ではロジェ、英語ではロジャー、ドイツ語ではロゲルと表記する。

シチリア王国の統治

 彼は、ビザンツ帝国、神聖ローマ帝国、ローマ教皇、ヴェネツィア、イスラーム勢力など南イタリア・シチリアをねらう勢力を実力で撃退しながら巧みに操り、覇権を確立した。第2回十字軍に参加して北アフリカ進出の足場を築き、トリポリやチュニスにも進出した。
 ノルマンディを故郷とするノルマン人の騎士であるが、彼の統治下の南イタリア・シチリア島にはギリシア、ローマ、イスラームの各民族が混在し、文化も重層的に重なり合っていた。彼はノルマンディー式の集権的封建体制で統治したが、宗教や風俗に対しては寛容政策をとった。パレルモに残るサン=ジョバンニ=デリ=エレミィティ寺院附属の僧院は彼の時に建造された。

ルッジェーロ2世の人物像

 ルッジェーロ2世(ラテン名ロゲリウス2世)は、高校世界史ではほとんど触れられないが、ノルマン=シチリア王国という地中海世界に存在した興味深い国を建国した人物として重要。日本ではあまり知られていないので、その人物像に触れた文を紹介しておこう。
(引用)年代記作家によれば、ロゲリウス2世(ルッジェーロ2世)は長身で、声が大きく、無遠慮で無慈悲な人物だった。また、人から愛されるよりは恐れられ、野心家であると同時に、あらゆる事柄を自分で処理しなければ気がすまない完璧主義者でもあった。忍耐強く、細部に気をくばり、知的で強固な意志を持っていたとも形容されている。キリスト教聖職者である年代記作者たちは不満を漏らしながらも、彼が異教徒であるイスラム教徒たちに対して寛容だったことを記している。彼はラテン語やアラビア語に対する素養もあったが、ギリシア語文化の影響を最も強く受けており、彼の署名は常にギリシア語でなされえいた。<高山博『中世シチリア王国』1999 講談社現代新書 p.95>

Episode 隠れムスリム?

 歴史家の中には、ルッジェーロ2世がイスラーム世界の君主と同じようにハーレムを持っていたという人い居るが確認はできない。宮廷に多くのイスラーム教徒がいたことは間違いがない。ルッジェーロ2世はイスラーム教徒の学者たちと会話を楽しみ、自らも最後の15年間は科学的思索に多くの時間を費やしていたという。また、イスラーム教徒への好意が際立っていたため、彼は隠れムスリムだという噂も流れたという。しかし彼は敬虔なキリスト教徒であり、キリスト教会を厚く保護していた。<高山博『同上書』 p.95>

統一国家の整備

 1130年、ルッジェーロ2世はパレルモで即位したが、イタリア半島南部には敵対する勢力が多かった。ルッジェーロ2世はイスラーム教徒軍を率いて1140年までにそれらをすべて平定して、南イタリアを統一した。その間、ルッジェーロ2世の王位を認めないローマ教皇と、それを支持する神聖ローマ皇帝軍とも戦って勝っている。1137年には教皇インノケンティウス2世を捕らえ、シチリア王であることを認めさせた。
 南イタリアに統一的支配権を打ち立てたルッジェーロ2世は、1140年9月、アリアーノに領内の世俗諸侯と司教を召集して王の貨幣を鋳造し、その使用を強制した。また新しい行政機構を設け、地方司法官と地方侍従官を置いて王国の中央集権化を図り、イスラーム教徒に土地台帳を管理させる役所を設けるなど、官僚制の整備を行った。

地中海の覇権

 1140年までに半島部の統一を終えたルッジェーロ2世は、周辺の地中海を標的として領土拡張を展開した。シチリア王国の艦隊は頻繁に北アフリカに進出、その地のイスラーム教弱小領主(アミール)に対して次々と宗主権を認めさせ、トリポリ、チュニス、カイラワーンなど広大な地域を支配するようになった。
 1147年に第2回十字軍が始まると、ルッジェーロ2世はそれに参加したが、攻撃したのはビザンツ帝国領のコルフ島などであり、それによって勢力圏をアドリア海方面にも拡張した。

その死とシチリア王国

 1154年2月27日、ルッジェーロ2世は58歳で死去した。「新しい王国を打ち立て、ローマ教皇やビザンツ皇帝、神聖ローマ皇帝と争って勝利をおさめ、北アフリカを征服して誇大な帝国を築き、コンスタンティノープルの皇帝位すら狙った人物の最後は、あっけないものであった」。<高山博『同上書』 p.105>
 後を継いだグリエルモ1世(ラテン名ウィレルムス1世)は、即位直後の諸侯の反乱を鎮めた者の、その政治は宰相マイオに委ね、後宮で気儘な生活を送るようになり「悪王」と評された。1159年には北アフリカの領土を西方から進出してきたムワッヒド朝によって奪われ、北アフリカにおけるノルマン人支配は終わりを告げた。
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ノートの参照
6章1節 キ.外敵の侵入と西ヨーロッパの混乱
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高山博
『中世シチリア王国』
1999 講談社現代新書