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両シチリア王国

ノルマン人が南イタリアとシチリア島に進出して建設した国。

 1130年、ノルマン人ルッジェーロ2世が建国した南イタリアとシチリア島にまたがる王国。その後、支配者はたびたび交替し、盛衰を繰り返しながら、1320年にはナポリ王国とシチリア王国と分離。その後も分離統合が続いたが、最終的には1860年にイタリア王国に統合される。

ノルマン人の進出事情

 ノルマン人が南イタリアに進出した事情は次のようなことである。11世紀の初め、たまたま聖地巡礼の途中に南イタリアを訪れたていたノルマンディの騎士たちは、おりからイスラーム軍(ヨーロッパの人々はサラセンといった)の攻撃に苦しむサレルノ市に請われて力を貸すことになった。ノルマン騎士の働きでイスラーム軍を撃退することに成功した南イタリアの諸都市は相次いで彼らを傭兵として招くことになった。おりから本国ノルマンディでは領地不足から新天地を求めていた騎士が多かったので、次々と南イタリアに移住していった。

当時の南イタリア

 当時の南イタリア(イタリア半島南部とシチリア島)は、イスラーム軍の侵攻だけでなく、かつての支配者ビザンツ帝国、全イタリアの統治権を主張して進出を図る神聖ローマ帝国(ドイツ王)、世俗の権力と同じような権力を南イタリアでも行使しようとするローマ教皇、そして商業圏拡大のみならず領土的野心も持ち始めたヴェネツィアなどの都市共和国、などが入り乱れて争奪戦を繰り返していた。南イタリア及びシチリア島は地中海の中央部に位置するので、ローマとカルタゴの争い以来、地中海世界の最も政治的に重要な地域だったといえる。

両シチリア王国ノルマン朝の成立

 そのような地域に進出したノルマン人が、はじめは傭兵として登場したものだったが、結局、漁夫の利を占める形でその覇権を握ることとなる。南イタリアに進出したノルマン人の中で最も頭角を現したのはノルマンディのアルタヴィラの領主タンクレディ家の息子たちで、長子鉄腕グリエルモがサレルノ侯より封土を与えられたのに続き、弟のロベルト=ギスカルドは実力で南イタリア一帯を制圧し、1059年にローマ教皇から「公」の称号を許され、次弟のルッジェーロはシチリア島をイスラーム勢力から奪取して1072年にシチリア伯となった(ルッジェーロ1世)。そのルッジェーロの子のルッジェーロ2世が南イタリアとシチリアにまたがる主権を確立してローマ教皇から「シチリア王」と「アプリア公」、さらにカプアとナポリの宗主権などを認められ、1130年に国王となった。これが南イタリアとシチリアにまたがる「両シチリア王国」のノルマン朝である。<井上幸治編『南欧史』1957 世界各国史旧版 山川出版社 p.72-75 などによる>

両シチリア王国の文化とその後

 両シチリア王国はキリスト教文化とともにイスラーム文化を受容し、独特の文化を形成した。しかし、地中海の海上貿易の要衝に当たるこの地は、教皇・ドイツ・フランス・スペインなどの諸勢力の利害が対立し、19世紀にイタリアに編入されるまでさまざまな権力が交替する。ノルマン朝の次には、神聖ローマ帝国のシュタウフェン家が統治するシュタウフェン朝(フリードリッヒ2世の時、パレルモが繁栄)を経て、フランスのアンジュー家の支配、スペインのアラゴン家の支配などが交替する。 → シチリアの晩鐘 
なお、一般に1130年のルッジェーロ2世の建国から「両シチリア王国」というが、実際にこの国号が使われたのは、ずっと後の
 ・1442~58年 アラゴン家のフェルディナンド4世の統治
 ・1816~60年 ナポレオン没落後復活したスペイン=ブルボン家の支配した時期
の二つの時期のみである。 → ナポリ王国  シチリア王国  イタリアの統一 
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ノートの参照
5章1節 キ.外敵の侵入と西ヨーロッパの混乱