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シチリア

地中海の中心に位置する最大の島。交通と通商の要地で諸勢力が交替。

 シチリア島は地中海世界のほぼ中央に位置する、地中海最大の島である。現在ではイタリアの一部を構成するが、長い独自の歴史を持つ地域なので、一つにまとめて理解する必要がある。近代以前のシチリア島の支配者の交代をまとめると次のようになる。
 ギリシア人植民市 → カルタゴの支配 → ローマの属州 → ゲルマン人の支配 → ビザンツ領 → イスラームの支配 → ノルマン朝 → シュタウフェン朝 → アンジュー家(フランス)の支配 → アラゴンの支配 → スペイン領 ・・・ → イタリア王国
さらに各時期のポイントは次のようにまとめることができる。

植民都市建設

:紀元前1000年頃イタリア本土からシクリ人(シチリアの語源)が移住、その後フェニキア人ギリシア人の植民市が建設された。とくにシラクサはギリシア人の植民市として重要。その後カルタゴ(フェニキア人)が進出、その支配を受ける。

ローマの属州

 シチリア島は、第1次ポエニ戦争の結果としてローマ最初の属州となった島。その後もローマの重要な属州として穀物供給地とされた。はじめ島の東部に建設されたシラクサなどのギリシャ人植民市を中心に大きな勢力を持っていたが島の西部にカルタゴが進出してその支配を受けるようになり、ローマとカルタゴの対立からポエニ戦争が勃発した。ローマの勝利の結果、西部はローマの支配下に入った。前227年からはローマは総督を置いて統治し、ローマの海外に持った最初の属州となった。ただシチリア東部はローマの盟友シラクサの統治が認められていた。前218年に起こった第2回ポエニ戦争 ではシラクサはローマから離反して、カルタゴとともにローマに敗れ、全島がローマ市支配下に入った。その後シラクサはローマの属州として総督の統治を受け、奴隷反乱の舞台となったがそれも鎮圧され、特にローマ市民の食糧としての穀物を供給しつづけた。ローマ元老院の議員カトー(大カトー)はシチリアを「ローマの穀倉、ローマ平民の乳母」と呼んでいる。

Episode シチリアの悪総督

 前1世紀前半、属州シチリアの総督)として悪名が高かったのがウェレスである。前70年にウェレス弾劾裁判が行われ、有名なキケロがその検察官として長文の弾劾演説を残している。それによるとウェレスは総督という地位をフルに利用して、徴税請負人からリベートを巻き上げ、抵抗する者を投獄し、美術品をあさり、夜な夜な美女を侍らせて宴会をしていたという。元老院によって解任された後、キケロの告発によって有罪が決定的になったウェレスはひそかにマルセイユに亡命した。<くわしくは、吉村忠典『古代ローマ帝国』1998 岩波新書を見よ>
ローマ帝国滅亡後、一時ゲルマン人の支配を受け、さらに6世紀にユスティニアヌス大帝のビザンツ帝国領となる。

イスラームの侵入(9~12世紀)

 7世紀初めにアラビア半島に成立したイスラーム強制力は盛んにジハードをおこない、正統カリフ時代までにエジプト・シリアを征服した。さらにウマイヤ朝は北アフリカのマグリブ地方のベルベル人を支配した。さらにイスラーム勢力の侵入はヨーロッパへの大きな脅威となり、イベリア半島に入って711年に西ゴート王国を滅ぼし、ついでアラブ人とベルベル人からなるイスラーム軍の襲撃がシチリア島にも及ぶようになり、827年にはアッバース朝の宗主権下にあったチュニジアのアグラブ朝の艦隊のシチリア島侵攻が開始され、878年にはシラクサが占領されてほぼ征服が完了し、902年には残った島東部のタオルミナが陥落した。その後イスラーム勢力による支配は12世紀までその支配が続き、彼らはシチリアを拠点としてしばしばイタリア本土にも侵攻した。イスラームによって支配されていた時代に、新たな農業がもたらされ、経済も発展し、ローマ文化とイスラーム文化の融合した独自の文化が形成されたという側面もある。

ノルマン人の侵入(11~12世紀)

 南イタリアにはビザンツ帝国、ローマ教皇、ドイツ皇帝などが支配権を争い、さらにアマルフィ、ナポリ、サレルノなどの海港都市が競う状況が続き、イスラーム教徒の侵攻に結束して抵抗することがなかった。イスラーム勢力の侵入に衝撃を受けたキリスト教世界では、危機感を持ったローマ教皇や都市が、聖地巡礼の途次に南イタリアに来ていたノルマンディ出身のノルマン人騎士の武力を利用しようとしたことが契機となってノルマン人の南イタリア進出が始まった。まずロベルト=ギスカルドが南イタリアを制圧し、その弟ルッジェーロは1061年からシチリア島のイスラーム勢力に対する攻撃を開始、72年までに占領を完了し、シチリア伯の称号を得た。ローマ教皇は、1130年ルッジェーロの子のルッジェーロ2世にシチリアと南イタリアにまたがる両シチリア王国の国王の地位を認めパレルモで即位した。これがノルマン朝である。

シュタウフェン朝の支配(12世紀末から13世紀)

:その後シチリア王位はノルマン朝が断絶したため、1194年からは、神聖ローマ皇帝シュタウフェン朝が継承することとなり、特にフリードリヒ(フェデリーコ)2世は官僚制を整備し、パレルモはその都として繁栄する。ローマ文化、ゲルマン文化、ビザンツ文化にイスラーム文化が融合した独特の南イタリアの文化が開花したのがこの時期である。

フランスとスペインの抗争(13世紀)

:皇帝と対立する教皇の要請で、フランスのアンジュー伯シャルルが1266年にシチリアに侵攻、シュタウフェン家のマンフレディを破り、アンジュー家が両シチリアを支配する。シュタウフェン家は1268年に最後のコンラディンがシャルルに殺されて断絶。その後、フランスの支配を不満とした島民が1282年に蜂起(シチリアの晩祷)し、援軍としてやって来たスペインのアラゴン王国の軍隊がそのままシチリアを支配し、1302年にシチリア王国が成立、一方のアンジュー家はナポリを中心とした南イタリアのみを支配するナポリ王国となる。

シチリア王国

:1302年成立のシチリア王国はスペインのアラゴン王家が支配する国家であったが、アラゴン家は15世紀には本国のアラゴンとこのシチリアからサルデーニャ、さらに1442年にはナポリ王国まで併合(両シチリア王国となる)して地中海に海洋帝国を築いた。1479年にアラゴン王国とカスティリヤ王国が合併してスペイン王国となると、シチリアもスペイン王国に組み込まれた。
 シチリア王国は実質的にスペイン人の支配する国であったが、近代に入っても外国支配が続いた。1701年にスペイン継承戦争がおこり、その結果フランス・スペインが敗れ、1713年のユトレヒト条約で、北イタリアのピエモンテを支配していたサヴォイア公国にその領有権が移ったが、サヴォイア公国は1720年にオーストリアとの間でこの地をサルデーニャ島と交換したため、シチリアはオーストリア領となった。1735年にスペイン・ブルボン朝がナポリ王国と共にシチリア王国の王位を継承して再びスペイン領となった。
 ナポレオンは1796年のイタリア遠征以来たびたびイタリアに侵攻し、半島をほぼその支配下においたが、シチリア島にはその支配を及ぼすことができなかった。イギリスは、1806年、シチリアに逃れたブルボン家の国王を保護する名目で艦隊を派遣し、シチリアに上陸して占領した。その狙いはシチリア島が硫黄(火薬の原料となる)の産地であったので、それがフランスの手に落ちることを恐れた防ぐことにあった。その後もイギリスはシチリア島を経済的に支配した。 → イタリア(フランスによる支配)

イタリア王国に編入

イタリア統一リソルジメント)の過程で、1860年ガリバルディの率いる赤シャツ隊がシチリアを占領し、住民投票でイタリア王国に編入された。しかし、工業化が進んだ北イタリアに比べて南イタリア、特にシチリアは地主の土地支配が残り、生産性も低く、貧困が続いた。20世紀末にはそのような状況の中から、租税の軽減などを要求する農民組織ファッショ(その複数形がファッシ)が結成され、中央政府に反抗した。この運動は1894年に政府によって弾圧されたが、この様な社会的混乱を背景に犯罪組織であるマフィアが生まれた。第二次世界大戦では、1943年7月連合軍がシチリア島に上陸、反撃を開始した。

Episode シチリア島とマフィア

 アメリカで大きな力を持っているマフィアの故郷はシチリア島であるとされている。生産力が低く、しかも長い間他国の支配を受けてきたシチリア人は「オメルタ」ということを大切にしている。この翻訳不可能な言葉は、誠実とか信頼の意味に近く、その表現形態は「沈黙」であり、さらに国家や法の支配に対する不信と反抗の表明であるという。苛酷な自然と権力者の支配に抵抗するために自然発生的に生まれた組織がマフィアであったらしい。初めは農民が主体で、中に山賊などもいたということだったらしいが、20世紀に入ってアメリカに向かった多数のイタリア移民の中で犯罪に走った連中がコーザ=ノストラなど強固な秘密組織をつくっていった。彼らは麻薬の密売で得た利益を様々な分野に投資し、時には政治家とも闇で結びついてその組織を拡大していった。コッポラ監督の映画『ゴッド=ファーザー』に描かれた世界だが、本来のシチリア島のマフィアとは全く違ったものになった。<藤沢房俊『シチリア・マフィアの世界』1988 中公新書>
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ノートの参照
1章3節 イ.地中海征服とその影響
5章1節 キ.外敵の侵入と西ヨーロッパの混乱
5章3節 コ.ドイツ・スイス・イタリア・北欧
第12章2節 オ.イタリアの統一
書籍案内

藤沢房俊
『シチリア・マフィア
の世界』
講談社学術文庫版