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シチリア/シチリア島

地中海の中心に位置する最大の島。交通と通商の要地で諸勢力が交替し地中海における「文明の十字路」ともいわれた。ギリシア人の殖民・ローマの属州支配・ゲルマン人とビザンツ帝国の支配・イスラーム支配・ノルマン王国・神聖ローマ帝国・スペイン支配時代をへて、1861年にイタリアに編入された。

 シチリア島は地中海世界のほぼ中央に位置する、地中海最大の島である。現在ではイタリアの一部を構成するが、長い独自の歴史を持つ地域であり、その位置から「文明の十字路」ともいわれるように幾つかの文明が重層的に交錯している。世界史学習としては、シチリア島の歴史をぶつ切りにしないで、つなげて見ることによって、ヨーロッパ史偏重ではない地中海世界、さらには世界史そのものが見えてくる場所と言ってよい。近代以前のシチリア島の歴史を支配者の交代でまとめると次のようになる。
 ギリシア人植民市 → カルタゴの支配 → ローマの属州 → ゲルマン人の支配 → ビザンツ領 → イスラームの支配 → ノルマン=シチリア王国・ノルマン朝 → シュタウフェン朝 → アンジュー家(フランス)の支配 → アラゴンの支配 → スペイン領 ・・・ → イタリア王国
 → (1)ギリシア・ローマ時代  (2)ゲルマン国家・ビザンツ帝国・イスラームの支配  (3)ノルマン=シチリア王国(両シチリア王国)  (4)イタリアへの統合

シチリア(1) ギリシア・ローマ時代

ギリシア人、フェニキア人の植民都市が築かれる。前4世紀、ギリシア系シラクサが繁栄。前3世紀末、ポエニ戦争をによりローマの属州となる。

植民都市建設

 紀元前1000年頃、イタリア本土からシクリ人(シチリアの語源)が移住、その後フェニキア人ギリシア人の植民市が建設された。とくに島の東海岸のシラクサはギリシア人の植民市として重要である。南イタリアのネアポリスタレントゥムなどとともに、シチリア島も含めてマグナ=グラエキア(大ギリシアの意味)といわれた。

シラクサの繁栄

 ギリシア本土のコリントを母市として建設されたシラクサは、地中海の交易を巡ってフェニキア人のカルタゴと争うようになった。地中海の商業活動を巡るシラクサのギリシア人とカルタゴのフェニキア人の対立が、それぞれを支援するギリシア諸都市とペルシア帝国との間で展開されたペルシア戦争の背景となっている。前480年、サラミスの海戦と並行して、シラクサ海軍とカルタゴ海軍がヒメラの戦いで衝突し、シラクサは勝利を占めている。
シラクサ王とプラトン ギリシア本土でペロポネソス戦争が起こるとシラクサはスパルタと同盟し、アテネと対立したため、アテネ海軍の攻撃を受けたが、それを撃退することに成功した。その後、前4世紀の初めシチリア島の最有力ポリスとなったシラクサには僭主ディオニュシオス1世が現れ、カルタゴと対抗しながら繁栄した。哲学者プラトンがシラクサに滞在し、理想国家をつくろうとしたのはそのころである。しかしプラトンは理想を実現することができず、アテネに帰った。

ポエニ戦争とローマの属州化

 前3世紀になるとイタリア半島の都市国家ローマが半島統一にのりだし、さらにシチリア島の西部に植民都市を設けていたフェニキア人カルタゴとの間で西地中海の海上貿易を巡って対立するようになった。カルタゴの攻撃を受けたシラクサがローマに援軍を要請したことから、ローマとカルタゴ間で第1次ポエニ戦争(前264年~前241年)が起こった。勝利したローマはシチリア島の西部を中心として支配下に収め、前227年からはローマは総督を置いて統治し、ローマの海外に持った最初の属州とした。シチリア東部はシラクサの統治が認められていたが、前218年に第2回ポエニ戦争(前218年~前201年)が起こるとシラクサはローマから離反して戦うこととなり、前211年に敗れ、都市国家としては滅亡した。シラクサは属州の州都としなり、シチリアはローマ市民の食糧としての穀物を供給しつづけた。ローマ元老院の議員カトー(大カトー)はシチリアを「ローマの穀倉、ローマ平民の乳母」と呼んでいる。

奴隷の反乱

 属州シチリアでは奴隷制にって農業・牧畜が行われていたが、前2~前1世紀には二度にわたってシチリアの奴隷反乱が起こった。前135年には「シチリアのへそ」と言われた要害の地エンナを中心とした地域と南西部を中心とした地域の双方で始まり、ローマやアテネのラウレイオン銀山、デロス島などにも波及する大奴隷反乱となった。これらはローマ軍によって鎮定されたが、さらに前104年に起こったシチリアの奴隷反乱は5年間にわたって続き、次の世紀にローマ時代の最大の奴隷反乱となるスパルタクスの反乱の先駆となった。

Episode シチリアの悪総督

 前1世紀前半、属州シチリアの総督)として悪名が高かったのがウェレスである。前70年にウェレス弾劾裁判が行われ、有名なキケロがその検察官として長文の弾劾演説を残している。それによるとウェレスは総督という地位をフルに利用して、徴税請負人からリベートを巻き上げ、抵抗する者を投獄し、美術品をあさり、夜な夜な美女を侍らせて宴会をしていたという。元老院によって解任された後、キケロの告発によって有罪が決定的になったウェレスはひそかにマルセイユに亡命した。<くわしくは、吉村忠典『古代ローマ帝国』1998 岩波新書を見よ>

シチリア(2) ゲルマン国家・ビザンツ帝国・イスラームの支配

4世紀にゲルマン人のヴァンダル王国が支配、5世紀にビザンツ領となる。8世紀にイスラーム勢力が侵攻、その支配を受ける。この間、シチリアではギリシア・ローマ文化、ゲルマン文化、イスラーム文化の混淆が進む。

ゲルマン国家とビザンツ帝国の支配

 ローマ帝国時代をつうじてシチリアは属州として支配を受け続けた。紀元後4世紀には民族移動の波が南イタリアまで波及、395年、ローマ帝国の東西分裂によって西ローマ帝国の一部となったが、シチリア島にはカルタゴに入ったヴァンダル王国が進出してきた。533年にはビザンツ帝国ユスティニアヌス大帝が地中海世界での支配を回復、シチリアもビザンツ帝国領となった。

イスラームの侵入(9~12世紀)

 7世紀初めにアラビア半島に成立したイスラーム強制力は盛んにジハードをおこない、正統カリフ時代までにエジプト・シリアを征服した。さらにウマイヤ朝は北アフリカのマグリブ地方のベルベル人を支配した。さらにイスラーム勢力の侵入はヨーロッパへの大きな脅威となり、イベリア半島に入って711年に西ゴート王国を滅ぼした。
 ついでアラブ人とベルベル人からなるイスラーム軍の襲撃がシチリア島にも及ぶようになり、827年にはアッバース朝の宗主権下にあったチュニジアのアグラブ朝の艦隊のシチリア島侵攻が開始され、878年にはシラクサが占領されてほぼ征服が完了し、902年には残った島東部のタオルミナが陥落した。その後イスラーム勢力による支配は12世紀まで続き、彼らはシチリアを拠点としてしばしばイタリア本土にも侵攻した。イスラームによって支配されていた時代に、新たな農業がもたらされ、経済も発展し、とくにパレルモにおいて、ローマ文化とイスラーム文化の融合した独自の文化が形成されたという側面もある。
イスラーム教徒がもたらしたもの イスラーム教徒がシチリア島のもたらしたのは潅漑農業であった。パレルモ周辺の畑には水路がひかれ、水辺にはペルシア葦(サトウキビ)やパピルスが栽培され、潅漑技術はペルシア起源の高度なサイフォン技術に支えられていた。イスラーム教徒はこの潅漑農業とともに、それまでヨーロッパではほとんど知られていなかった、レモン、ダイダイ、綿、桑、ナツメヤシ、ウルシ、ピスタチオ、パピルス、メロン、稲、サトウキビなどがもたらされた。絹づくりのための蚕も導入された。このような緑豊かなシチリア島の景観は13世紀にイスラーム教徒がいなくなっても維持された。<高山博『中世シチリア王国』1999 講談社現代新書 p.142-143>
パレルモと地中海貿易 シチリアの特産となったのはだった。シチリア絹、シラクサ絹などのブランド品とラーシンと呼ばれる安価な絹が、パレルモの港から盛んに東方にもたらされた。その他、ターバン、衣服、女性のフード、絨毯などが輸出された。イスラーム教徒がシチリア島を支配していた11世紀には、パレルモは地中海貿易のもっとも重要な中継地として栄えていた。しかし、12世紀にノルマン人が進出するとイスラーム商人の地中海貿易独占権は崩れ、スペインやフランス、北イタリア諸都市の船が直接エジプトや地中海東海岸と交易するようになる。

ノルマン人の南イタリア進出

 南イタリアにはビザンツ帝国、ローマ教皇、ドイツ皇帝などが支配権を争い、さらにアマルフィ、ナポリ、サレルノなどの海港都市が競う状況が続き、イスラーム教徒の侵攻に結束して抵抗することがなかった。イスラーム勢力の侵入に衝撃を受けたキリスト教世界では、危機感を持ったローマ教皇や都市が、聖地巡礼の途次に南イタリアに来ていたノルマンディ出身のノルマン人騎士の武力を傭兵として利用しようとしたことが契機となって11~12世紀にノルマン人の南イタリア進出が盛んに行われた。

シチリア(3) ノルマン=シチリア王国(両シチリア王国)

ノルマン人は1061年からシチリアに進出し、イスラーム勢力を排除。1130年にルッジェーロ2世がシチリアと南イタリアにまたがるシチリア王国を建国した。そのもとで官僚制の整備が進んだ。13世紀、ドイツ系のシュタウフェン朝に替わり、全盛期を迎える。その断絶後、フランスのアンジュー家とスペインのアラゴン家が争う。1302年、シチリア王国はシチリアとナポリと分離する。

シチリア王国の成立

 ノルマンディ出身ののロベルト=ギスカルドが南イタリアを制圧し、その弟ルッジェーロは1061年からシチリア島のイスラーム勢力に対する攻撃を開始、72年までに占領を完了し、シチリア伯の称号を得た。ローマ教皇は、1130年ルッジェーロの子のルッジェーロ2世にシチリアと南イタリアにまたがるシチリア王国(ノルマン=シチリア王国ともいう。これを両シチリア王国の起源とすることも多い)の国王の地位を認めパレルモで即位した。これがシチリア王国のノルマン朝である。
 さらにノルマン=シチリア王国は強力な艦隊を有しており、しばしばビザンツ帝国に攻撃を仕掛け、さらに北アフリカのチュニジアに進出して支配した。

首都パレルモの繁栄

 ノルマン朝シチリア王国は、ノルマン系の騎士が支配層を形成したが、ギリシア系の官僚を登用し、またイスラーム教徒とも共存してその文化を採り入れ、高度な官僚制を持つ国家として発展した。その都のパレルモには、ノルマン・ギリシア・ビザンツ・イスラームの文化を融合させた独自の都市文化が開花した。<高山博『中世シチリア王国』1999 講談社現代新書>
12世紀ルネサンスの発信地 12世紀のシチリア島は、シチリア王国の都パレルモの宮廷ではイスラーム教徒が重要な役割を果たし、他の都市にも多くのイスラーム教徒が居住してキリスト教徒、ギリシア正教徒と共存していた。イスラーム世界のムスリムの学者のもとでかつてアッバース朝でバクダードに造られた「知恵の館」でギリシア語からアラビア語に翻訳された古典古代のギリシアの文献が伝えられており、パレルモなどでアラビア語からラテン語への翻訳が行われた。
 その文献を求めてヨーロッパ各地から修道士がシチリア島を訪れ、パレルモは一大研究都市となった。同様な文化の動きは当時のスペインのトレドなどでも見られ、いずれも中世ヨーロッパでの新しい文化の発信地となった。この動きは、文化史上の「12世紀ルネサンス」と言われている。

シュタウフェン朝の支配(12世紀末から13世紀)

 その後シチリア王位はノルマン朝が断絶したため、1194年からは、神聖ローマ皇帝シュタウフェン朝が継承することとなり、特にフリードリヒ(フェデリーコ)2世は官僚制を整備し、パレルモはその都として繁栄する。ローマ文化、ゲルマン文化、ビザンツ文化にイスラーム文化が融合した独特の南イタリアの文化が開花したのがこの時期である。

フランスとスペインの抗争(13世紀)

 皇帝と対立する教皇の要請で、フランスのアンジュー伯シャルルが1266年にシチリアに侵攻、シュタウフェン家のマンフレディを破り、アンジュー家が両シチリアを支配する。シュタウフェン家は1268年に最後のコンラディンがシャルルに殺されて断絶。その後、フランスの支配を不満とした島民が1282年に蜂起(シチリアの晩祷)し、援軍としてやって来たスペインのアラゴン王国の軍隊がそのままシチリアを支配し、1302年にアラゴン王家の支配するシチリア王国が成立、一方のアンジュー家はナポリを中心とした南イタリアのみを支配するナポリ王国となる。

両シチリア王国

 15世紀には本国のアラゴンとこのシチリアを支配したアラゴン王家が次第に有力となり、サルデーニャを領有、さらに1442年にはナポリ王国を併合した。ここで再びシチリアと南イタリアの双方を支配する国家が成立し、このとき正式に両シチリア王国と称した。
 1479年にはスペイン本土のアラゴン王国とカスティリヤ王国が合併してスペイン王国が成立すると、シチリアもスペイン王国に組み込まれ、地中海に海洋帝国の一部となった。
イタリア戦争 1494年、フランスのヴァロワ朝シャルル8世なナポリ王位の継承権を主張してイタリアに侵攻したことからイタリア戦争が始まった。1516年、スペイン王位はハプスブルク家のカルロス1世(後に神聖ローマ皇帝カール5世)が継承し、シチリアを含む南イタリアはハプスブルク家に支配されることとなる。ようやく1559年、カトー=カンブレジ条約で講和が成立、それによってイタリアにおけるフランスの勢力はほぼ一掃され、スペイン=ハプスブルク家フェリペ2世がシチリアも統治した。シチリアを含む南イタリアにはスペイン人総督が置かれ、スペインの植民地支配が17世紀まで続く。

シチリア(4) イタリアへの統合

スペインの支配が続くなか、ナポレオン時代にはイギリスが進出。19世紀、イタリア統一運動が強まるなか、1860年ガリバルディが占領、イタリアに編入された。第二次世界大戦では連合軍の上陸地点となる。

支配国の頻繁な交替

 シチリア王国は実質的にスペイン人の支配する国であったが、近代に入っても外国支配が続いた。1701年にスペイン継承戦争がおこり、その結果フランス・スペインが敗れ、1713年のユトレヒト条約で、北イタリアのピエモンテを支配していたサヴォイア公国にその領有権が移り、ヴィットリオ=アメデーオ2世がシチリア王となった。サヴォイア公国は1720年にオーストリアとの間でこの地をサルデーニャ島と交換したため、シチリアはオーストリア=ハプスブルク家領となった。
 ポーランド継承戦争(1733~1735)が起こるとスペイン=ブルボン朝はナポリを攻撃して占領、1735年の講和によって、オーストリアはスペインがシチリアを併合しないことを条件にシチリア王国の支配を認めた。これによってスペイン=ブルボン朝がナポリ王国とシチリア王国の王位を兼ねることとなり、南イタリアはふたたびスペイン(フランス系のスペイン=ブルボン家)の支配下に入った。

イギリスの経済的支配

 ナポレオンは1796年のイタリア遠征以来たびたびイタリアに侵攻し、半島をほぼその支配下においたが、シチリア島にはその支配を及ぼすことができなかった。ナポレオンに対抗していたイギリスは、1806年、シチリアに逃れたブルボン家の国王を保護する名目で艦隊を派遣し、シチリアに上陸して占領した。その狙いはシチリア島が硫黄(火薬の原料となる)の産地であったので、それがフランスの手に落ちることを恐れた防ぐことにあった。その後もイギリスはシチリア島を経済的に支配した。 → イタリア(フランスによる支配)

イタリア王国に編入

 ナポレオンが没落し、フランスで王政復古、スペインにもブルボン朝スペイン王家が戻ると、1816年、シチリア島とナポリをあわせて、スペイン=ブルボン家を王とする「両シチリア王国」が復活した。
 イタリア統一リソルジメント)の過程で、1860年ガリバルディの率いる赤シャツ隊がシチリアを占領し、住民投票の結果イタリアへの統合が可決され、それをうけてサルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に施政権が献上され、翌1861年成立したイタリア王国に編入された。1871年、イタリア王国はローマを首都として半島とシチリア島を合わせて統治する近代国家となった。
南イタリアの後進性 しかし、工業化が進んだ北イタリアに比べて南イタリア、特にシチリアは地主の土地支配が残り、生産性も低く、貧困が続いた。20世紀末にはそのような状況の中から、南イタリアを中心に租税の軽減などを要求する農民組織ファッショ(その複数形がファッシ)が結成され、中央政府に反抗した。この運動は1894年に政府によって弾圧されたが、この様な社会的混乱を背景に犯罪組織であるマフィアが生まれた。第二次世界大戦では、1943年7月連合軍がシチリア島に上陸、反撃を開始した。

Episode シチリア島とマフィア

 アメリカで大きな力を持っているマフィアの故郷はシチリア島であるとされている。生産力が低く、しかも長い間他国の支配を受けてきたシチリア人は「オメルタ」ということを大切にしている。この翻訳不可能な言葉は、誠実とか信頼の意味に近く、その表現形態は「沈黙」であり、さらに国家や法の支配に対する不信と反抗の表明であるという。苛酷な自然と権力者の支配に抵抗するために自然発生的に生まれた組織がマフィアであったらしい。初めは農民が主体で、中に山賊などもいたということだったらしいが、20世紀に入ってアメリカに向かった多数のイタリア移民の中で犯罪に走った連中がコーザ=ノストラなど強固な秘密組織をつくっていった。彼らは麻薬の密売で得た利益を様々な分野に投資し、時には政治家とも闇で結びついてその組織を拡大していった。コッポラ監督の映画『ゴッド=ファーザー』に描かれた世界だが、本来のシチリア島のマフィアとは全く違ったものになった。<藤沢房俊『シチリア・マフィアの世界』1988 中公新書>

Episode メーデー虐殺事件

 1947年5月1日、シチリア島のポルテッラ・デラ・ジネストラで、第二次世界大戦後最初のメーデー集会が開催された。そこで機関銃が乱射され11人が亡くなるという事件がおこった。イタリアで戦後最初の虐殺事件は、ファシスト政権が打倒された後の民主化運動に対してなされたものであった。犯人はサルバトーレ・ジュリアーノというマフィアの頭目で、地主勢力が背後にあったといわれている。虐殺事件から70年となった2017年5月には記念碑の前でメーデー集会が開かれた。この事件を風化させず、マフィアとの戦いは今もつづけられているという。<赤旗 2017年6月16日朝刊>
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ノートの参照
1章3節 イ.地中海征服とその影響
5章1節 キ.外敵の侵入と西ヨーロッパの混乱
5章3節 コ.ドイツ・スイス・イタリア・北欧
第12章2節 オ.イタリアの統一
書籍案内

吉村忠典
『古代ローマ帝国』
岩波新書

高山博
『中世シチリア王国』
1999 講談社現代新書

藤沢房俊
『シチリア・マフィア
の世界』
講談社学術文庫版