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ノルマン人の南イタリア進出

11世紀以降、ノルマン人が南イタリア、シチリアに進出し、両シチリア王国を建設した。

 世界史の教科書では、「西ヨーロッパ中世世界の形成」の章の中で、「外部勢力の侵入とヨーロッパ世界」の項目があり、第二次の民族移動としてノルマン人の移動が取り上げられ、その中でノルマンディー公国に続いて「ここからさらにわかれた一派は、12世紀前半、南イタリアとシチリア島に侵入し、両シチリア王国を建国した」と説明されている。これだけでは北欧にいたはずのノルマン人が、なぜ突然南イタリアに姿を現すのか、どうやって国を建てたのか、また「両」って何だろうと知りたくなってくるだろう。授業ではなおざりにされがちだが、ここには世界史らしいダイナミックで興味深い(はずの)物語性に富んだ歴史があり、またこれ以後の地中海世界を中心とした世界史をみていく上で重要なテーマが隠されている。煩雑を厭わず、中世後期の地中海世界、南イタリア・シチリアの歴史を見ていこう。<以下は、高山博『中世シチリア王国』1999 講談社現代新書などによる>
 まず、ノルマン人が南イタリアに進出した事情は次のようであった。

地中海中心部の歴史的経緯

 南イタリア及びシチリア島は地中海の中央部に位置するので、古代のポエニ戦争=ローマとカルタゴの争い以来、地中海世界の最も政治的に重要な地域だったといえる。今でこそイタリアの一部だが、ローマ以前にはギリシア人植民都市が多く築かれ、マグナ=グラエキア(大ギリシアの意味)といわれ、今も方言にはギリシア語が残っているという。さらにローマ帝国の衰退にともなって民族移動の波が押しよせ、ランゴバルト族や東ゴート族、ヴァンダル族が進出、5世紀にはビザンツ帝国領となった。さらに大きな変動は8世紀以降此の地にもイスラーム勢力の侵入が始まったことで、902年にはシチリア島がイスラーム教徒の支配下に入った。

南イタリアの状況

 11世紀の南イタリアには、イタリア半島南部にナポリ公国、サレルノ侯国、アマルフィ侯国などの都市国家、半島南端にはビザンツ帝国領、シチリア島にはイスラーム勢力というように分裂し、そこに全イタリアの統治権を主張して進出を図る神聖ローマ帝国(ドイツ王)、世俗の権力と同じような権力を南イタリアでも行使しようとするローマ教皇、そして商業圏拡大のみならず領土的野心も持ち始めたヴェネツィアなどの北イタリアの都市共和国などが入り乱れて争奪戦を繰り返していた。

ノルマン人の進出事情

 スカンジナビアやデンマークなど北欧を故郷とするノルマン人は8世紀から第2次民族大移動とされる移動を開始、ヴァイキングと言われてヨーロッパの海岸を荒らし回り、その一部は海岸地方に定着し始めた。北フランスにはロロに率いられた一派が定住し、フランス王からノルマンディ公国に封じられた。戦士として優れていた彼らは封建諸侯の傭兵として重宝されるようになり、また聖地巡礼の傭兵となることも多かった。
傭兵として働き、領主となる 11世紀の初め、サレルノ侯国はイスラーム軍(サラセン軍)の攻撃に苦しんでいたところ、たまたま聖地巡礼の途中に南イタリアを訪れたていたノルマンディの騎士たちを雇ったところ、その働きでイスラーム軍を撃退することに成功し、それがきっかけで南イタリアの諸都市は相次いで彼らを傭兵として招くことになり、おりから本国ノルマンディでは領地不足から多くのノルマン騎士が新天地を求めていたので、次々と南イタリアに移住していった。
注意 「ノルマン人のイングランド征服」との違い 歴史家は「ノルマン人の南イタリア征服」という言い方をするが、それはむろん、「ノルマン人のイングランド征服(ノルマン=コンクェスト、ノルマン征服)」と比較してのことであるが、この二つの征服はまったく異なる性格のものである。ノルマン人のイングランド征服はヘースティングスの戦いという一度の戦いで決したが、こちらは文字どおりの征服ではなく、長いゆるやかな経緯で行われた。まず第一段階としてノルマン人が傭兵として移住していき、第二段階として1130年頃、ノルマン人の戦士集団が独立の政治単位となり、第三の段階の1060~70年代にアヴェルサ伯領とアプーリア公国というノルマン人国家が成立するという過程を取っており、最終段階として1130年にルッジェーロ2世のシチリア王国に統一された。<高山博『同上書』p.56>

タンクレディ家の息子たち

 このようにしてノルマンディーから南イタリアに渡って傭兵となったノルマン人の中には、報償として土地が与えられ小領主となるものもあらわれた。その中で最大の成功を収めたのがノルマンディーのオートヴィル(ラテン名アルタヴィラ)のタンクレディ家(ラテン名タンクレドゥス)の息子たちであった。彼はノルマンディー公に仕える小領主であったが、合計12人の息子がいた。1035年頃まず長男の鉄腕グリエルモ(ラテン名ウィレルムス)ら3人が南イタリアに渡り、サレルノ侯より封土を与えられたのに続き、弟のロベルト=ギスカルド(ラテン名ロベルティス=グィスカルドゥス)は実力で南イタリア一帯を制圧し、1059年にローマ教皇から「公」の称号を許されるまでになった。その他の兄弟も次々と南イタリアに赴いて小領主となっていった。最後に末弟のルッジェーロ(ラテン名ロゲリウス)はシチリア島をイスラーム勢力から奪取して1072年にシチリア伯となった(ルッジェーロ1世)。そのルッジェーロの子のルッジェーロ2世が南イタリアとシチリアにまたがる主権を確立してローマ教皇から「シチリア王」と「アプリア公」、さらにカプアとナポリの宗主権などを認められ、1130年に国王となった。これが南イタリアとシチリアにまたがる「両シチリア王国」のノルマン朝である。
ロベルト=ギスカルド ギスカルドはラテン名でグィスカルドゥス、それは「狡猾な」という意味で、ノルマン人の南イタリア国家建設の成功者の一人である。アプーリア公となった彼は1080年までに南イタリアの対抗勢力を次々と下してイタリア半島南部の統一的支配を樹立、ローマ教皇は教皇領を尊重することを条件にギスカルドの君主権を認めた。その狙いは、当時ローマ教皇は叙任権闘争を神聖ローマ皇帝(ドイツ王)と展開していたので、ギスカルドを教皇側に付かせることであった。事実、1084年には神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がローマに遠征し、教皇グレゴリウス7世をサンタンジェロ塔に幽閉したのに対し、ギスカルドは大規模な軍隊を率いてローマに向かい、教皇を救出した。その後ギスカルドは中断していたビザンツ帝国遠征を行ったが、その途次、1085年に陣没した。ロベルト=ギスカルドの死後は、もともと基盤の弱い南イタリアのノルマン諸侯は互いに争い、急激に弱体化した。例外が、シチリア島を領有した末弟ルッジェーロだった。

シチリア島征服

 ルッジェーロ(ラテン名ロゲリウス)は1057年頃、26才でノルマンディーから南イタリアに渡り、兄のロベルト=ギスカルドに従ってミレートという小領地を得た。兄たちの抗争に巻き込まれながら力を蓄え、1060年、はじめてシチリア島征服を開始した。シチリア島は当時イスラーム教徒の有力な君主が三人いて互いに対立していた。ルッジェーロはその一人から援軍を頼まれて出兵したのだった。1072年、イスラーム教徒の首都パレルモを陥落させ、兄からシチリア伯ルッジェーロ1世の称号を与えられた。以後、20年にわたって山岳地帯に逃れたイスラーム教徒に対する征服活動を行い、1091年にようやくシチリア島全土を征服した。
ルッジェーロ2世 ルッジェーロ1世は1101年に他界、8才のルッジェーロ2世が即位、母親が摂政となった。幼少の君主であったがシチリア伯国はシチリアと南イタリアに領地を併せ持ち、ギリシア系の官僚と軍隊に支えられた国家に成長していた。大宰相と言われたゲオールギオスは地中海最強と言われたシチリア艦隊を組織し、ルッジェーロ2世を支えた。成人したルッジェーロ2世は周辺諸国を次々に制圧、1129年までにシチリアと南イタリアを合わせて領有し、1130年にはローマ教皇から正式にシチリア王の王位を承認された。これが地中海世界に新たに誕生したシチリア王国(両シチリア王国)である。
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ノートの参照
6章1節 キ.外敵の侵入と西ヨーロッパの混乱
書籍案内

高山博
『中世シチリア王国』
1999 講談社現代新書