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テンプル騎士団

宗教騎士団の一つ。大きな財力を持つようになる。

中世ヨーロッパの宗教騎士団の一つ。1118年、フランスのシャンパーニュ伯領出身の騎士ユーグ=ド=パイヤンはイェルサレムに至る巡礼路の警備に挺身し、翌年騎士団を創設。イェルサレム王国のボードワン2世はかれらの宿舎として「ソロモン神殿(テンプル)跡」(「ソロモンの栄華」で有名な神殿跡)を与えた。ここから「テンプル騎士団」の名称が起こる。1128年、ローマ教皇から「キリストの貧しき騎士にしてイェルサレムなるテンプル騎士修道会」としてローマ教皇に直属する修道会として公認された。

ローマ教皇に承認される

(引用)ユーグ=ド=パイヤンとジョフロワの2騎士がわずか7人の同調者を得たのみで、ほそぼそと巡礼路パトロールを続けて十年が経過。エルサレム国王と総大司教の証認・援助はあったがなお、地方的な存在にすぎなかったテンプル騎士団を歴史の檜舞台にのせたのは、シトー派クレールヴォー修道院(これもシャンパーニュ地方にあった)の聖ベルナルドゥスであった。彼はその活動に聖俗両界の理想の一致を見いだし、最大の賛辞を表明した。またその上司シトー派修道会総長スティーヴン=ハーディングもベルナルドゥスを支援した。その結果、この日、教皇ホノリウス2世の命によりシャンパーニュ伯領の首府トロワに公会議が召集され、教皇代理のアルバノ大司教枢機卿マチアスが議長のもと、エルサレムから帰国していた6人の騎士がそろいの白いマントを着て出席、修道騎士として叙任され、9人の会員よりなる正規の騎士修道会の認可が下された。正式の名称は「キリストの貧しき騎士にしてエルサレムなるテンプル騎士修道会」と登録され、ローマ教皇に直属する教会法上の修道会として公認された。 当時ローマ教皇はドイツ皇帝との対立状態が続き、皇帝側の対立教皇の存在に悩まされ、しばしばローマ市からの亡命を余儀なくされる状態であった。<橋口倫介『騎士団』 p.40-43>

十字軍後のテンプル騎士団

 1291年、イェルサレム王国の最後の都アッコンが陥落し、パレスチナにおける十字軍の活動が終わると、テンプル騎士団は本拠をキプロス島に移し、その後も活動を続た。
 テンプル騎士団は全ヨーロッパに支部を設け財産を蓄え、金融を通じてフランス国家にも食い込んでいった。フランス王フィリップ4世はその勢力を王権の障害と考え、財産を没収するため弾圧を加え、総長ド=モレーらを処刑、1312年解散させた。
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ノートの参照
第6章3節 ア.十字軍とその影響
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橋口倫介『十字軍騎士団』
講談社学術文庫