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キプロス島/キプロス紛争

地中海最大の島で古くから海上交易の拠点として繁栄。十字軍の基地とも成る。オスマン帝国領であったが1923年にイギリスが併合強行。第二次大戦後、ギリシア系とトルコ系の住民間に紛争が起きる。

 キプロス島は小アジアの南に位置する東地中海最大の島。東地中海の海上交通の要衝として重要であった。その位置はギリシアから遠く、現在のトルコの南方に当たるが、神話ではギリシア神話のアフロディーテ(ヴィーナス)の生地とされているように、古くからギリシア人が入植し、その文化圏に入っていた。また古来、良質の銅が産出したことで知られる。銅を意味する英語 copper の語源は、キプロス Cyprus であるという。

キプロス島の歴史(独立まで)

 地中海世界の中で重要な位置を占めていたので、さまざまな勢力が交替した。前15世紀前半にはエジプト新王国のトトメス3世の支配下にあったが、ミケーネ時代ギリシア人が植民活動を行って移住し、ギリシア文化圏となって、さらに地中海東岸のフェニキア人との交易がはじまった。その後オリエントに起こった世界帝国であるアッシリア帝国、ついでアケメネス朝ペルシア帝国の支配をうけた。
 ヘレニズム時代にはプトレマイオス朝エジプトの支配下にあり、その滅亡後はローマ帝国領となった。その後、ローマ帝国が東西に分裂(395年)されると東ローマ帝国に属し、そのままビザンツ帝国の時代へと続いた。その間、7世紀以降はイスラーム教の勢力が及んできてビザンツ帝国との抗争がつづいた。

十字軍時代

 十字軍時代の1156年、十字軍国家の一つアンティオキア公国の支配者ルノー=ド=シャンティヨンがビザンツ領であったキプロスに侵入し、略奪行為を働くという事件が起こった。1191年には第3回十字軍に参加したイギリス王リチャード1世(獅子心王)がキプロスを奪い、そこを基地として人員と軍需品を満載した25隻のガレオン船を準備し、アッコンを攻撃した。リチャード1世はイェルサレム奪回は成らず、サラーフ=アッディーン(サラディン)と講和して帰国するが、その時、かつてヒッティーンの戦いでサラーフ=アッディーンに敗れたイェルサレム王国のギー=リュジニャンにキプロス島を与えた。それ以後、キプロス島は約4世紀にわたって、ギーの子孫が治めるリュジニャン朝が続いた。その間、1248年には第6回十字軍を起こしたフランス王ルイ9世がエジプト攻撃の基地としてキプロスに入り、その地でエジプトを挟撃するためにモンゴルの使節を迎えて協議している。しかしこのエジプト攻撃はルイ7世自身が捕虜となる敗北を喫して失敗に終わった。1291年、イェルサレム王国の最後の都アッコンが陥落して十字軍時代が終わると、アッコンから多くの避難民がキプロスに渡った。イェルサレムの聖地保護のために結成されたテンプル騎士団もその拠点をキプロスに移した。

オスマン帝国の支配

 15世紀以降はジェノヴァヴェネツィアの商人が進出、東方貿易の拠点とされた。15世紀末にはヴェネティアの支配下に入ったが、しかし、1571年にオスマン帝国によって征服され、東方貿易は困難になった。オスマン帝国のキプロス占領に対抗するため、スペイン・ローマ教皇・ヴェネツィアのキリスト教連合艦隊が結成され、レパントの海戦でオスマン海軍を破ったが、オスマン帝国は反撃に転じ、1574年にチュニスを征服し、地中海の制海権を維持した。東方貿易自体もオスマン帝国が高関税を賦課したために困難となり、それがイタリア商人を新航路開拓へと向かわせ大航海時代が始まることとなった。
 キプロス島ではオスマン帝国の支配下でイスラーム化が進んだが、ギリシア系住民はそのまま存続し、ギリシアへの帰属を求めるエノシス運動という運動が起こっている。

イギリス領となる

 露土戦争後の1878年のベルリン条約イギリスが管理権を得た。イギリスは中東支配の基地としてキプロスを位置づけていたのであり、イギリス帝国主義の一環であった。第一次世界大戦が起こり、オスマン帝国が同盟側につくと、戦後イギリスはキプロスを併合を強行し、1923年に直轄植民地とした。

キプロス紛争

 キプロス島はイギリス帝国主義の西アジア支配の拠点とされていたが、第二次世界大戦後、キプロスのギリシア系住民(80%を占める)がギリシア正教のマカリオス大司教らの指導でギリシアへの統合を主張し、イギリスと対立、1955年には暴動が起こった。イギリスはキプロスのギリシア統合は認めず、独立を認める代わりに軍事基地2カ所を確保し、1960年にキプロス共和国として独立した。キプロスには約20%のトルコ系住民が存在し、ギリシア系住民との間で64年、67年に武力衝突が発生した(キプロス紛争)。さらに1974年、ギリシアの軍事政権がキプロスに介入したことに反発したトルコ共和国が出兵し、北キプロスを占領した。トルコの占領は続き、83年には一方的に「北キプロス・トルコ共和国」独立を宣言した。こうしてキプロスは南北で分断されたが北キプロスを承認したのはトルコのみに留まっている。国連の仲介で両者の話し合いが断続的に行われているが、2004年5月のEU加盟は「キプロス共和国」のみの加盟となった。
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第17章1節 ア.米・ソ軍縮と緊張緩和