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シャイバニ/シャイバニ朝

ティムール朝を倒したウズベク人の指導者。1500年にサマルカンドを都にシャイバニ朝を建国した。

 16世紀初め、ウズベク人を率いてティムール朝のサマルカンド政権を1500年に、ヘラート政権を1507年に滅ぼして、西トルキスタンのマー=ワラー=アンナフルにシャイバニ朝(シャイバーン朝)を建国した。生没1451~1510年。シャイバニー=ハンとも称した。彼はモンゴル帝国のジュチの子孫と称し、ティムール帝国の領域継承をめざした。

イスマーイール1世、バーブルとの抗争

 シャイバニは、ティムール朝の一族のフェルガナを拠点としたバーブルと激しく争い、1500年にサマルカンドを攻略した直後にも一度手放し、1501年のサリ・ブルの決戦でバーブルを破り、再入城を果たした。その後もバーブルを追撃し、そのためバーブルは1503年、アフガニスタンに逃れた。しかし、1510年、シャイバニはイランのサファヴィー朝イスマーイール1世と戦って敗れ戦死した。その機会にサマルカンドはバーブルに奪還されたが、翌年ウズベク人は反撃し、再びバーブルをアフガニスタンのカーブルに退却させた。

シャイバニ朝

 シャイバーン朝とも表記する。16世紀初めの中央アジア(西トルキスタン)でティムール朝を倒したトルコ系民族であるウズベク人の族長シャイバニが起こしたスンナ派イスラーム教の王朝。首都はブハラにおかれた。1500年、シャイバニがサマルカンドに入りティムール朝(サマルカンド政権)を滅ぼして成立した。シャイバニは1510年、イランに起こったサファヴィー朝(シーア派)のイスマーイール1世と戦って戦死した。そのときシャイバニ朝は、ティムールの一族のバーブルがサマルカンドに侵攻したため一時後退したが、1512年に復興し、16世紀末アブドゥッラー2世の時、領土を広げた。シャイバニ朝はその後、1599年にジャーン朝に代わった。ジャーン朝とは、ヴォルガ下流のアストラハン朝からの亡命者ジャーンとシャイバニ家の王女との間に生まれた人物を初代としている。ジャーン朝は約200年、ブハラで存続したが、1740年、ウズベクの一部族であるマンギト族出身の武将によって滅ぼされ、以後マンギト朝が1920年まで続く。このシャイバニ、ジャーン、マンギトの三王朝は主としてブハラを首都としたので、一般にブハラ=ハン国と言われるようになる。ブハラ=ハン国からヒヴァ=ハン国が自立し、さらに18世紀にコーカンド=ハン国が分かれ、これらウズベク人の三ハン国が中央アジアに分立することになったが、19世紀後半にはあいついでロシアに征服された。 → 中央アジアの歴史
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7章3節 トルコ・イラン世界の展開