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ヒヴァ=ハン国

16~19世紀、西トルキスタンのウズベク人の国家の一つ。1873年、ロシアの保護国となる。

現在のヒヴァ城内 現在のヒヴァ城内
 アム川下流のホラズム地方に、シャイバニの一族イルバルスが1512年にシャイバニ朝から独立してヒヴァ=ハン国を建てた。彼の一族は1804年に同じウズベク人のコウングラト部出身の武将に支配権を奪われるが、この王朝も含めて、1920年の滅亡までをヒヴァ=ハン国という。同じウズベク人のブハラ=ハン国コーカンド=ハン国(18世紀に成立)と西トルキスタンで領土をめぐって激しく争ったが、国内政治はハン一族の封建的な体制が続き、奴隷制の残存など、停滞した。

ロシアの保護国化

 クリミア戦争に敗れたロシアは南下政策の鉾先を転じ、中央アジア進出を開始した。ロシアによるヒヴァ=ハン国攻撃は、1869年、カスピ海東岸へのロシア軍の上陸から始まった。ロシア軍は砂漠に進軍を遮られ停滞したが、1873年トルキスタン総督カウフマンが直接指揮して三方からヒヴァをめざした。戦意を無くしたヒヴァ=ハン国のムハンマド=ラヒム2世は降伏し、8月12日平和条約を締結、事実上の保護国となり、220万リーブルの賠償金が課せられることとなった。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』1995 岩波新書 p.197-199>

世界遺産 博物館都市ヒヴァ

 ヒヴァはアム川下流の交通の要地として栄え、北のキジルクム砂漠と南のカラクーム砂漠を渡ってきた隊商たちの中継地でもあった。また古代のホラズム王国以来の繁栄の歴史もあり、独自の文化を有している。現在ではウズベキスタン共和国に属しているが、首都タシケントからは1000kmほど離れており、その様子も違いが大きい。市街の中心には、イチャンカラと言う城壁で囲まれた旧ヒヴァ=ハン国の君主(アミール)の都城が残されており、「博物館都市」と言われるように、ハンのハーレムや未完成だが美しいカルタ=ミナレット、モスクやメドレセが残されているが、なによりも中世以来の生活が現在も続けられているところが興味深い。
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ノートの参照
第13章3節 東アジアの激動
書籍案内
加藤九祚
『中央アジア歴史群像』
1995 岩波新書
世界史の旅
ヒヴァ