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フッテン

宗教改革期のドイツの人文学者、宗教改革者。1522年、反ローマ教皇の武装闘争を開始、騎士戦争を起こしたが、敗れた。

フッテン
フッテンをえがいたビラ
森田安一『ルターの首引き猫』p.134
 ウルリヒ=フォン=フッテン(1488-1523)は、ヘッセン地方の下級貴族(騎士階級)の家に生まれた。法学を学び世に出ようとしたが、イタリアに行った際に人文主義に出会い、その影響を受け、また神聖ローマ皇帝直属の騎士となったことからローマ教皇に反発するようになった。ルターの宗教改革が始まるとそれを支持し、ともに反ローマ教皇の軍事行動を起こそうとしたが、ルターの協力は得られなかった。同じ没落貴族であるジッキンゲンと共に1522年に騎士戦争といわれる反乱を起こしたが、まもなく鎮圧された。

没落した騎士階級

(引用)中世末期のこの時代は騎士階級に不利に動いていた。わずかばかりの領地支配では進展した貨幣経済に十分対応することができなくなり、経済的に困窮していた。身分シンボルである騎士としての役割も、火砲の発達による軍事編成の変化によって失いつつあった。かれらの最良の生き方は、領域支配を完成しつつあった領邦君主の宮廷に出仕することであった。それには支配の手段である法学を学ぶために大学教育を受ける必要があった。この時代には騎士に限らず、身分の上昇を願った上層市民も同様の施行を示していた。<森田安一『ルターの首引き猫』1993 山川出版社 p.99-106>
 そこでフッテンはドイツ各地で哲学などを学んだ後、1512年にイタリアに赴き、パヴィア、ボローニャの両大学で法学を学んだ。しかし当時はイタリア戦争のさなかで学費が途絶えたのでフッテンは皇帝マクシミリアンの軍隊に騎士として従軍した。ここでの体験からドイツ人としての民族意識と反ローマ教皇の立場を鮮明にさせ、1514年にはマインツの大司教に外交使節として仕えだし、そこで人文学者として名高いエラスムスの知己を得て強い影響を受けた。そのころ、ドイツの人文学者ロイヒリンが宗教裁判にかけられるという事件が持ち上がると、フッテンはその弁護の先頭に立った。その時のロイヒリンに宛てた書簡では「福音に比べられるものがいったいありうるだろうか。・・・ある人がかの贖宥状を百度受けとっても、誠実に生きなければ、滅びることになるでしょう。贖宥状はかれにとってなんの役にも立たないでしょう」と述べている。

フッテンとルター

 フッテンは独自に反ローマ教皇の主張を強めていった。そこに1517年のルターの宗教改革が始まった。フッテンは当初は関心を寄せていなかったが、次第にその支持を明確に表明し、同士の帝国騎士ジッキンゲンとともに、武装闘争を計画する。ルターも初めはフッテンとジッキンゲンに理解を示したが、その武力蜂起には同調しなかった。
(引用)宗教改革の具体的改革がおこなわれる以前、つまり1521年までのカトリック教会・ローマ教皇との闘争のなかでは、フッテンとルターは共闘を期待されていた。(しかし)たしかに、ヴォルムス帝国議会におけるルター審問の後、ルターがヴァルトブルク城に身を隠すと、フッテンは孤立していく。かれは騎士戦争を計画し、教会諸侯領を世俗化して、そこを帝国騎士たちの拠点として帝国の改造・統一を構想した。<森田安一『ルターの首引き猫』1993 山川出版社 p.136-137>

フッテンの敗北

 フッテンはジッキンゲンを軍事指導者として1522年9月にトリーア大司教に対する闘いを開始したが、簡単に敗北し、スイスに逃亡した。最初バーゼルのエラスムスを頼ったが、フッテンは厄介者扱いにされて受け入れを拒絶された。最後は宗教改革者ツヴィングリを頼ってチューリヒを訪れ、彼の庇護を受けたが、1523年8月に梅毒が原因で他界した。<同上 p.137>
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森田安一
『ルターの首引き猫』
1993 山川出版社