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ルター

ルター
Martin Luther(1483-1546)

1517年、ドイツで宗教改革を開始した人物。ローマ教皇から破門されながら、批判を貫き、聖書中心主義、信仰義人説を掲げてキリスト教の新教(プロテスタント)を成立させた。

 1517年、宗教改革の先頭に立つことになったルターは、当時は全国的には無名な、ヴィッテンベルク大学の神学教授であった。当時34歳。1483年、ザクセン地方の銅鉱山の坑夫の子として生まれたルターは、エルフルト大学で法律を学ぶうちに修道院に入り、1506年に修道士となった。1511年末にはローマに行き、ルネサンス末期の雰囲気に接している。1508年からヴィッテンベルク大学講師となり、1512年に神学教授となった。彼は自己の信仰と、当時の教会のあり方の乖離に悩み、懊悩したが、ある時聖書のロマ書にある「信仰によってのみ人は義とされる」という言葉に感動し、救われたという。そのような中で1517年、ローマ教会が贖宥状の発売をドイツで始めたことに対し、『九十五ヶ条の論題』を発表し、宗教改革の口火を切った。ルターは、かねてからの考えである福音主義信仰義認説万人祭司主義などの理念を1520年に『キリスト者の自由』などの著作で発表し、表面からカトリック教会を批判を展開した。

Episode ルターの回心

 アイスレーベンの鉱山労働者ハンスの子として生まれたマルチン・ルターはエアフルト大学で法律の学位を取得した。これは青年ルターの将来が世俗的意味で約束されたことを意味し、父親ハンスは、以後マルチンを「お前」(du)ではなく「あなた」(Ihr)と呼ぶことにすると言ったほどよろこんだ。そのルターが1505年、突然、親の猛烈な反対を押し切ってエアフルトのアウグスティーヌス会修道院に入って修道僧になる。その直接の契機は、故郷を訪問しての帰途ルターがシュトッテルンハイムという町の近くの原野で雷鳴を伴った嵐に会い、死の恐怖から、「助けてくれれば僧になる」と祈ったことであるとされている。・・・ <小田垣雅也『キリスト教の歴史』1995 講談社現代新書 p.131>
 ルターは自らの修道院での修業の結果、人間の努力によっては神の義には至れないという確信を持った。「信仰義認」はこの確信と同時にめざめた。義人は行いによってではなく、信仰によって生きるのである(ローマの使徒への手紙1-17)。これが「塔での回心」と言われるルターの回心の経験であり「信仰のみ」といわれる意味である。<小田垣雅也『同上書』p.133> → 信仰義認説

95ヶ条の論題

 ヴィッテンベルク大学の聖書の教授であったルターは、聖書の解釈や神学の命題の研鑽にはげんだ。その頃、ローマ教皇レオ10世は、サン=ピエトロ大聖堂の修復のためにといって贖宥状の販売を始めた。ドイツで率先して売りさばいていたマインツ大司教アルプレヒト=フォン=ブランデンブルクの説明によれば、贖宥状を買ったものの天国行きは教会によって保証されると宣伝した。それに対してルターは素朴な疑問をもった。贖宥状のことは聖書に書いていない。それによって人は本当に救われるのだろうか・・・。悩んだすえルターは贖宥状販売が誤っているという結論に達し、1517年10月31日、九十五ヶ条の論題といわれる公開質問状をヴィッテンベルク城の教会の扉に張り出した。最近の研究ではこの日付には決定的な証拠はない、また公開質問状は張り出されたのではなく、書簡という形で送付されたという説が有力になっている。いずれにせよこの質問状は大きな反響をよび、これが世界史の大きな転換となった宗教改革のはじまりであった。<ルター/深井智朗『宗教改革三大文書』2017 講談社学術文庫 解説 p.414>
 もっともルターは当初は贖宥状の発行を批判したのであって、ローマ教皇や教会の存在、制度、その権威そのものを否定したのではなかった。しかし、論争が激化する過程で、ルターは教会批判そのものに向かわざるを得なくなった。

ルターの教会批判

 ルター自身は当初は単なる神学上の論争の範囲にとどまると考えていたが、その思惑とは別にその主張は大きな反響を呼び、教会の支配に疑問を持っていた農民や、諸侯にも支持が拡がった。無視することができなくなった教会側は、1519年にライプツィヒで公開討論を行い、ルターと教会神学者のエックを対決させた。ルターはそこで自説を展開したが、エックの誘導尋問により、フスを認める発言をした。フスは異端として処刑されていたので、それによってルターの主張も異端であると断定される危険が出てきた。ルターは1520年に『キリスト者の自由』などの著作を発表し、教会批判を展開した。ローマ教会は教皇の勅書を発し、その主張の撤回を迫ったが、ルターはその勅書をヴィッテンベルクの広場で焼き捨て、学生たちも教会法典やスコラ神学の書物をその火中に投げ込んだ。ローマ教皇はついにルターを異端と断定し、1521年初めに破門とした。
 ルターは『キリスト者の自由』のなかで、聖書では聖職者とは単に奉仕者、僕、執事として信仰に導くための説教をするものとされており、一般信者との差別を認めていないにもかかわらず、「然るに今やその執事職から現世的外的な、輝かしい威厳ある主権と権力とが発生し、正当な地上の権威でさえどんな方法をもってしてもこれと匹敵することができなくなり、平信徒のごときはほとんどキリスト教的信徒とは別の者でもあるかのようにされるにいたった。・・・」<ルター/石原謙訳『キリスト者の自由』岩波文庫 p.29-30>と批判した。

ルターの追放処分

 前年に神聖ローマ帝国皇帝となっていたカール5世は、皇帝の立場で教会の論争を収束させようとしてヴォルムス帝国議会を召集、ルターを召喚し、その説の放棄を迫った。ここでもルターは自説を曲げず教皇と公会議の権威を認めないと公言し、最後に「ここにわたしは立つ」と言ったという。カール5世は「帝国追放」の刑を宣言したが、密かに脱出したルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒに保護され、ヴァルトブルク城にかくまわれた。ルターはそこでラテン語の新約聖書のドイツ語訳を完成した。これによって民衆が聖書を手に、聖書にもとづく信仰が可能となって、宗教改革は急速に広がった。

農民戦争への転化とルターの姿勢

 ルターの主張は封建的な支配に苦しんでいた農民にも支持され、はじめルターの影響を受けたトマス=ミュンツァーの指導する農民一揆が1524年にドイツ農民戦争が勃発した。ミュンツァーは農奴制の解放などを掲げ、領主や教会を襲撃したが、ルターはそのような過激な行動には批判的であり、最後にはその指示を撤回し、それとともに一揆は鎮圧された。

Episode ルターの結婚

 ルターは大変禁欲的な人であったが、かねて僧侶も結婚すべきであり、修道院も廃止すべきであると主張していた。修道院は当時、自発的に修道女となろうとして入る女性は少なく、ほとんど、家庭の事情や婚期を逸した貴族の娘などが強制的に送り込まれていた。1523年のある日、ヴィッテンベルクの近くの修道院の修道女たちが抜け出したいとルターに訴えてきた。修道女の脱走を手助けすると罪になるので、ルターは夜中に馬車を用意し、ニシンの空樽にかくまって12名の修道女を脱出させた。ルターは彼女たちを次々と結婚させたが、その中の一人カタリナは早くに母に死に別れ、父が再婚する際に修道院に入れられた女性であった。ただ一人結婚話がまとまらなかったカタリナは、ルター博士なら結婚してもいいというので、ルターは彼女と結婚した。1525年、ルター42歳、カタリナ26歳だった。ルターは彼女に好意を持っていたのではなく、義務感から結婚したのだが、それでも三男三女を設けた。<会田雄次・中村賢二郎『ルネサンス』河出書房新社 p.299-301>

Episode 「ルターの首引き猫」

ルターの首引き猫
森田安一『ルターの首引き猫』p.150
 ルターの宗教改革が始まると、その支持派とカトリック教会擁護派の双方とも当時普及した印刷術を利用して多数のパンフレットやビラを作成し、激しい宣伝合戦をおこなった。次にあげるのはルター派のビラで、「ルターの首引き猫」と言われる図である。首引き猫とは二人の人が輪にした綱に首を通し、引っ張り合って相手を倒す一種の遊び。ここでは左のルターと右のローマ教皇が首引きをしているが、ルターがキリストの架かった十字架を支えにしっかりしているのに対して、ローマ教皇はゆがんだ表情でその冠ははずれ、その首から下がっている袋からは金貨がこぼれている。そして教皇が倒れないように支えている修道士たちは豚や犬の顔を持っている。これは、ルターの勝利を描いた、ルター派のパンフレットの表紙である。<森田安一『ルターの首引き猫』1993 山川出版社 p.149-150>

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ノートの参照
8章3節 ア.宗教改革の始まり
書籍案内

小田垣雅也
『キリスト教の歴史』
1995 講談社学術文庫

ルター/石原謙訳
『キリスト者の自由・聖書への序言』1955 岩波文庫

森田安一
『ルターの首引き猫』
1993 山川出版社

ルター/深井智朗
『宗教改革三大文書』
2017 講談社学術文庫