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メアリ2世

ウィリアム3世とメアリ2世
1898年のウィリアム3世とメアリ2世

イギリス・ステュアート朝の女王。名誉革命で1689年に夫のウィリアム3世と共に即位した。

 イギリス・ステュアート家ジェームズ(後のジェームズ2世)の娘であったが、父がカトリック信者であったのに対して、プロテスタントに改宗し、オランダ総督ウィレム3世と結婚した。名誉革命でイギリス女王として迎えられ、1689年、夫ウィリアム3世と共に即位してメアリ2世となる(在位1689~94年)。ウィリアムはオランダ人で、オラニエ家(英語ではオレンジ家)の人だが、メアリの出身から、ステュアート朝に含めている。

Episode 「夫とならイギリスの国王になります」

 メアリとオランダ総督ウィレムの結婚は全くの政略結婚であった。それまで英蘭戦争を戦っていたイギリスとオランダが、フランスのルイ14世のオランダ侵略という脅威を前にして提携することの証として、1677年に結婚したのだが、時にウィレムは27歳、メアリは16歳。ロンドンに迎えに行ったウィレムと一緒にドーヴァーを渡る船中で、メアリーは不安からか泣きあかしたという。父ジェームズ(時の国王チャールズの弟。後のジェームズ2世)は熱心なカトリックであったが、この結婚の前提としてメアリーは夫と同じプロテスタントに改宗した。このことはイギリス議会の反国王派にとって、ジェームズの次はメアリーを国王にしようという目論見を早くから抱かせた。やがてジェームズが即位すると、懸念されたとおり、カトリック復興を謀り、議会と厳しく対立するようになった。そこで、議会はジェームズを見限り、予定通り、オランダ総督夫人メアリに帰国して国王になってほしいと要請した。しかし彼女は、夫のウィレムがイギリス国王になって私に優先する支配権を持たないかぎり、単独では受けません、という条件を付けた。夫を立てたわけである。ウィレムはそれまでメアリに冷たかったらしいが、彼女の夫に対する誠意に感激して、イギリスに渡ることを決意したという(本当はこれ幸いとおもったのかもしれないが)。イギリス議会もその条件を呑んで、オランダ人を共同統治の国王として迎えることに決めたわけだから、メアリの思い通りになったわけである。その後二人はイギリスの共同統治(ウィリアムは依然、オランダ総督を兼ねている)にあたったが、常に夫を立てたからか、ほぼうまく行ったようだ。しかし、二人は子供に恵まれなかった。メアリの方が早く、1694年に死去、ウィリアムは1702年に死んだ。イギリス王位ははメアリの妹、アンが継承し、イギリスとオランダの同君連合は解消した。

パーセル作曲 メアリー女王の葬送音楽

 パーセル Henry Purcell 1659~1695 は王政復古期から名誉革命までの政治的動乱と宗教紛争の続いた時代、音楽史ではバロック音楽の時代のイギリスで活躍した音楽家である。イギリスの作曲家はあまり馴染みがないが、歌劇から器楽曲まで幅広く、美しい曲を残している。彼は1688年の名誉革命でイギリスを共同統治することになったウィリアム3世とメアリ2世の宮廷にも仕え、ウエストミンスター寺院専属のオルガニストとして活躍しながら、膨大な数の作曲を手がけた。
 イギリスの人々に歓迎され、国民的人気の高かったメアリ2世も、1694年、天然痘のためわずか33歳で亡くなってしまった。翌年3月、葬儀が行われたとき、演奏されたのがパーセルの作曲した葬送曲であった。もっともパーセルもその年の11月、36歳で亡くなり、自ら作曲した葬送曲で送られた。
 この「メアリー女王の葬送音楽」は亡き女王への敬慕と深い悲しみを、シンプルなブラス・セクションと混声合唱で書かれており、現在でも演奏会で取り上げられることがある。
 → YouTubeで聴くパーセル「メアリー女王の葬送音楽」 YouTube Purcell: Funeral Music for Queen Mary / Rattle · RIAS Kammerchor · Berliner Philharmoniker

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ノートの参照
9章1節 ウ.イギリス議会政治の確立