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名誉革命

1688年、イギリス議会がジェームズ2世を追放し、オランダからウィレムとメアリを迎え、二人は「権利の宣言」を受けいれて国王となり、さらに「権利の章典」を制定した。これによって議会政治と国教会制度を柱とするイギリスの立憲君主政治が確立した。

 1642年の内乱から始まるピューリタン革命に次いで起こった政治的転換であり、イギリス革命を完成させた変革である。王政復古後のイギリス・ステュアート朝のジェームズ2世はカトリック信者であったため、国教会の立場に立つ議会との対立は再び深刻になった。議会内にも国王に妥協的なトーリ党と、王権との対決を辞さないホィッグ党の党派対立が始まっていた。ジェームズには子供がなかったので、その死を待って新教徒である娘のメアリ(オランダのオラニエ公夫人となっていた)を即位させるという妥協案に傾いていた。ところが、1688年にジェームズに男子が産まれると、議会側のもくろみは崩れることになるので、議会のトーリ、ホィッグの両党は一致して、急きょメアリと夫のオランダ総督ウィレム(英語読みでオレンジ公ウィリアム)を招聘した。オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は英蘭戦争で激しくイギリスと戦った国であるが、プロテスタント(カルヴァン派)の国で、当時フランスのルイ14世の侵攻を受けていたためイギリスとの提携に転じ、積極的に応じた。
 ウィレムがオランダ軍の大軍をトーベイに上陸させると、ジェームズ2世はフランスのルイ14世の支援を断り独力で対抗しようとした。しかし国王軍は分裂して抗戦することができず、各地に反国王の蜂起も始まり、ロンドン市民も国王排除に立ち上がった。ついに12月、ジェームズは妻子とともにフランスに亡命した。この国王の交替が流血の惨事を伴わずに実現したことから、この変革を「名誉革命」(Glorious Revolution)といっている。 → イギリス(5)

権利章典と寛容法

 翌1689年、議会は「権利の宣言」を提出し、ウィレムとメアリがこれを承認してウィリアム3世メアリ2世として即位した。さらに議会は権利宣言を「権利の章典」として制定、立憲君主制が成立した。また同年、議会は寛容法を制定して、非国教会のプロテスタントの信仰の自由を認め、国教会とピューリタンの和解を図り、革命前からの宗教対立を終わらせた。ただし、カトリック教徒は寛容の対象とはならず、また審査法は存続しているのでプロテスタントも公職に就くことは出来なかった。また、アイルランドはカトリック教徒が多く、一時はフランスの支援でジェームズ2世を迎え、反乱を起こしたが、ウィリアム3世によって鎮圧された。カトリック教徒が公職に就けないとされたのは、彼らが現国王に対する忠誠を拒否し、ジェームズ2世とその子孫の復位を狙っていると見られたからであった。 → イギリスの宗教各派

「名誉」の意味について

 イギリス史の第一人者といわれたトレヴェリアンは、次のように説明している。この名誉とは、何らかの武勲とか、英雄的行為とか、一国民が一丸となれば暗愚な国王を追放できることを実証したとかという事実に存するのではない。それどころか、イングランド人が気違いじみた党派間の反目の中で浪費してしまった自由の回復をはかるために、外国の軍隊を必要としたことは「不名誉」なことである。『イギリス革命の真の「名誉」は、それが無血であったこと、内乱も大虐殺も人権剥奪もなかったこと、そしてなかんずく、人々と党派をかくも久しく、かくもはげしく分裂された宗教上、政治上の意見の相違について、同意による解決に到達しえたという事実にこそ存するのである。』<トレヴェリアン『イギリス史』2 みずす書房 p.199>

Episode 100年後の無敵艦隊

 オラニエ公ウィレムがイギリスに渡ってイギリス国王になったという事実をどうとらえるべきだろうか。イギリス史を扱った概説書ではおおよそ、イギリス議会が要請しウィレムがその招聘を受諾した、という書き方で主体は議会側にあり、あくまでウィレムはその要請に応えたもの、といっている。イギリス議会が要請した理由はカトリックのジェームズ2世を排除し、プロテスタントの王を迎えることにあったのであり、ウィレムが受けたのもプロテスタントの保護者としての国際的な立場があったからとされている。あるいは、ウィレムの妻のメアリが夫と共に帰国することを望んだことを強調する説明もある。となると、何やらウィレムが善意でイギリスを救ったように受け取れるが、果たして正しいだろうか。見方によっては、トレヴェリアンが言うように、外国の軍隊の力で政変を実現したのだから、不名誉な話である。
 オランダ史の概説書ではイギリスの事情より、ウィレムの意図が強かったと言っている。ウィレムは第3次英蘭戦争とルイ14世のオランダ侵略戦争が同時に起こった1672年の危機を見事に乗り切り、その後は77年にメアリと結婚してイギリスとの提携に転じ、海上での危険を解消して、着々と海外貿易を推進し国力を強めている。一方で、強大な陸軍力を持つフランスの再来襲は最もおそろしい。ルイ14世もイギリスのチャールズ2世、ジェームズ2世というカトリック王を盛んに応援している。もしイギリスがカトリック国に転じ、フランスと結ぶことになったら、オランダはたいへんなことになる。それだけは阻止しなければならない・・・。こう考えたウィレムは、イギリスを併合するチャンスを探り、スパイを派遣してイギリスの国内事情を探っていた。そこに飛び込んできたイギリス議会の極秘の要請は願ってもないチャンスだった。しかし、ホランド州議会はそのような危険な賭には、それでなくともウィレムの戦争路線で財政が破綻しようとしていたので、当然反対する。それに対してウィレムは、「イギリスとフランスを引き離し、国王と国民が反目している今を狙って進攻し、イギリスをオランダにとって役に立つ国にしよう」と説得した。準備は大急ぎで進められ、わずか2週間で上陸作戦を準備、500隻の軍艦と兵力2万ばかりを編成した。ちょうど百年前、イギリス海軍が破ったスペインの無敵艦隊の4倍の規模である。1688年秋、オランダ「無敵艦隊」はドーヴァーを超え、11月5日にオランダ軍はイングランド南部のトーベイに上陸した。

(引用)オランダ軍の侵略を、イギリス人は呆然と迎え入れるばかり。三ヶ月後、ウィレムは戸惑うイギリス議会を押し切って、イギリス国王の座に納まった。“昨日の敵は今日の友”を一瞬のうちに実現させた。ウィレムとオランダ陸海軍の離れ業だった。これがイギリスで“名誉革命”とよばれる事件にほかならない。<『ヨーロッパ近世の開化』世界の歴史17 大久保桂子執筆の8 p.318-319>
 どうやら、私たちの見方は、イギリスのプライドに引きずられていたようだ。イギリスの視点だけだと名誉革命という「イギリス立憲政治」の輝ける歴史の中に、なぜオランダ人が飛び込んでくるのか、よく分からなくなってしまう。ウィレム3世の動きは、フランスのルイ14世の侵略に対する対策であったのであり、まさに国際政治のかけひきの一面であった。そして自らイギリス国王を兼ねることによって、フランスとの戦いを有利に展開させ、フランスの脅威に対する集団的安全保障を構築するという構想を打ち出した。それが効果を上げるのは、次のスペイン継承戦争の時であったが、その最中の1702年、落馬事故が原因で死去する。
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ノートの参照
9章1節 ウ.イギリス議会政治の確立
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イギリス史2
トレヴェリアン
『イギリス史』2
みずす書房

大久保桂子他
『ヨーロッパ近世の開化』
世界の歴史17 中公文庫