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ルイ14世

17世紀後半から18世紀初頭、フランス絶対王政全盛期の国王。前半は宰相マザランが政治にあたる。親政開始後は産業の保護、海外植民地の拡大につとめ、また盛んに侵略戦争を行って領土を拡大した。

ルイ14世

ルイ14世

 フランスブルボン朝の国王(在位1643~1715年)。「太陽王」といわれたフランス絶対王政の全盛期の国王。ルイ13世とアンヌ=ドートリシュ(スペイン・ハプスブルク家の王女)の間に生まれ、1643年にわずか5歳で即位、当初は母のアンヌが摂政となり、枢機卿マザランが政治にあたった。即位間もない1648年に、王権の強化によって既得権を奪われることを恐れた貴族たちによるフロンドの乱が起こり、一時王家がパリから退去する事態となったが、1653年マザランの巧みな手腕によって鎮圧、王国の危機は回避され、むしろそれを機に王権は強化された。
 フランスはルイ14世の当時、人口約2000万でヨーロッパ随一の国力を持ち、ヨーロッパ最大の陸軍力を実際に発揮して、侵略戦争をつづけ領土拡張を実現、現在のフランスの領土とほぼ同じ範囲を領土とした。国力の充実を示す事業として、ヴェルサイユ宮殿を造営し、1682年から常駐した。しかし、うち続く侵略戦争と宮廷の奢侈は次第に財政を苦しくさせていった。ルイ14世は約50年にわたるフランスの統治を行って1715年に死去、ひ孫のルイ15世・次のルイ16世がブルボン朝を継承したが、18世紀を通じて国家の財政難、絶対王政の硬直化、いわゆるアンシャンレジーム社会の矛盾が深刻化して世紀末にフランス革命が起きることとなる。

ルイ14世の親政

 1661年、宰相マザランが死ぬと23歳で親政を宣言し、内政、外交に自ら積極的に統治した。「朕は国家なり」と言ったとされるが、事実とは確かめられないものの、その絶対王政のあり方を示す言葉としてよく知られている。彼の統治の根拠は王権神授説に基づく絶対王政であったが、それまでのブルボン朝と違い、
  • 宰相を置かず、王政を補佐する機関として最高国務会議を設けた。
  • 最高国務会議には王族や大貴族を排除し、実力本位の官僚(法服貴族)をあてた。
という特色がある。具体的には1665年から財政部門ではコルベール、軍政部門ではルーヴォワを重用したが、彼らはいずれも市民階級出身であった。このような有能な官僚を用いて合議していくスタイルは、1690年ごろまで続いたが、それ以降のルイ14世の晩年は、独裁的な傾向が強まっていった。

コルベールの重商主義

 ルイ14世のもとでフランス王国の財政を担当したコルベールはリシュリュー以来傾いていた国家財政の再建を目指し、重商主義政策を採った。それは国家が輸出入や商品流通などの経済活動に強く介入して、国富を富まし、財政を安定させることであり、まず国内の金銀保有量を増やすため輸入を制限して輸出を増やすことをめざした。そのため輸入関税を高くし、国内産業を保護して、王立工場の設立や資金貸し付けなどを行った。
 コルベールは1664年フランス東インド会社を再建して海外植民経営の積極化に乗りだし、その路線のもとで北アメリカのミシシッピ川流域に広大な領土を獲得し、ルイジアナと命名した。またインドではポンディシェリシャンデルナゴルに商館を設けて貿易を拡大した。これらの植民地拡大策はイギリスと衝突することとなり、ルイ14世時代末期の1688年のファルツ戦争からはイギリスとの英仏植民地戦争(第2次英仏百年戦争)が展開されることになる。

ルイ14世の侵略戦争

 外交ではハプスブルク家との対抗というフランスの伝統的外交政策を維持しながら領土の拡張に努めた。特に、自然国境説を唱えて北西の国境をライン川まで及ぼすことを目指し、スペインが支配していた南ネーデルラントやオランダ(ネーデルラント連邦共和国)への侵入を何度も試みた。この侵略はオランダに大きな脅威を与え、オランダ総督ウィレム3世はねばり強く抵抗しただけでなく、名誉革命で旧教徒の国王ジェームズ2世を排除したイギリスの国王として迎えられ、イギリス・オランダが同君連合となってフランスに抵抗することとなった。イギリスとフランスの抗争は、アメリカ新大陸やインドにおける植民地戦争も並行して始まり、これによって両国の百年戦争終結以来の平和は破られ、1688年以降は第2次英仏百年戦争に突入した。ルイ14世が行った、侵略的な対外戦争には次の4戦争がある。  ルイ14世のこれらの対外侵略戦争で兵力となったのは、徴兵による国民軍ではなく、給与を支払うことで徴募する傭兵であった。特にスイス人傭兵はフランス軍の主力となっただけ無く、その敵国にも傭われており、同じスイス人で戦うというのが実態だった。

ルイ14世の国内政治

ナントの王令の廃止 ルイ14世は、彼自身が熱心なカトリック信者であったこともあり、王権神授説に立って一国家一宗教の原則を実現しようと、1685年ナントの王令を廃止した。これはフランスにおける新教徒=プロテスタント(事実上カルヴァン派)の信仰を認めないもので、厳しい宗教統制であった。当時フランスのプロテスタントは先代のルイ13世リシュリュー時代にも厳しい弾圧を受け、すでにかつての勢力を失い信者数は減少していたが、なお都市の商工業者、技術者にはその比重が多かった。彼らの多くがナントの王令の廃止によってフランスを逃れて国外(イギリスやスイス)に出たため、フランスの産業発展は遅れたと言われている。
ローマ教皇との関係 ルイ14世はジャンセニズムというカトリックの厳格派も取り締まった。ジャンセニズムとは、オランダの神学者ヤンセンが説いた教えで、神の恩寵を得るためには厳格な信仰が必要であると説き、ローマ教会からは異端視されたがパリのポール=ロワイヤル修道院を拠点にかなりの信者を得ていた。ジャンセニズム弾圧ではローマ教皇の意向に沿うものであったが、反面、ローマ教皇と対立する場合もあった。ボシュエらが提唱したガリカニスムの立場からフランスの教会に対するフランス王の権力を認め、教皇の優越を否定する宣言を出している。しかしこの宣言は対外戦争を有利にするために取り消された。
王立科学アカデミーの創設 文化政策では、コルベールの提唱もあって、積極的な文化振興策を進めた。1666年には「王立科学アカデミー」を設立して科学者を保護し、新技術の開発を促した。また芸術家、学者に対する年金制度を創出した。また、ルイ13世の時に設立されたアカデミー=フランセーズによるフランス語辞典の編纂は1694年に終えて、ルイ14世に献呈された。
ヴェルサイユ宮殿の造営 ルイ14世は新宮殿としてパリ郊外にヴェルサイユ宮殿を建設した。親政開始直後の1661年に本格的造営を開始し、三期にわたる工期を設け、1682年に未完成であったが王宮を移し、さらに1710年代まで工事が続いた。それまでブルボン朝の王はルーヴル宮殿などのパリ市内の王宮を転々としていたが、ここで大宮殿をもち、貴族・官僚を一ヶ所に集めて国王が統治する形態を実現した。

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ユベール・メチヴィエ
/前川貞次郎訳
『ルイ14世』
文庫クセジュ

林田伸一
『ルイ14世とリシュリュー
絶対王政をつくった君主と宰相』
2016 山川出版社