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ウィレム3世/ウィリアム3世

オランダ総督としてはウィレム3世。名誉革命でイギリス国王ウィリアム3世となる。フランスのルイ14世との植民地戦争を戦い、イングランド銀行を設立して国債を発行し戦費をまかなう。

 ネーデルラント連邦共和国(以下オランダとする)の総督の位(事実上のオランダ王位)を世襲するオラニエ家(オレンジ公)のウィレム3世は、妻がイギリスのステュアート朝ジェームズ2世の娘メアリであったので、イギリスの名誉革命でイギリス国王として迎えられ、メアリ2世と共同統治するウィリアム3世となった。 → イギリス(5)
注意 ウィレム3世=ウィリアム3世の多面性 高校の世界史学習では、オランダ総督ウィレム3世は名誉革命でイギリス国王ウィリアム3世となった、ということだけで説明されがちであるが、この人物はもっと多面的な世界史との関わりのある人物であるので注意を要する。そもそもオランダは名誉革命の前にはイギリスとの激しい戦争、英蘭戦争を戦っていた。そのオランダ総督(事実上のオランダ王)が、なぜイギリス国王に迎えられたのか。そしてイギリスは何故他国人を国王にしたのか。また、その後のイギリスとオランダの関係はどうなるのか、なども興味深い点である。実は次に出てくるフランスのルイ14世の侵略戦争と戦って、その野心を打ち砕いたのもこの人物だったのである。彼は17~18世紀初頭当時のオランダ・イギリス・フランス三国の関係を理解する上で最大のキーパースンなのだ。そこでこの人物についてはやや詳しく見ておく必要がある。

21歳でオランダ総督に就任

 オランダは1648年のウェストファリア条約でその独立を国際的に認められたが、その内部では総督のオラニエ家の統治を認めるオラニエ派と、都市貴族を中心とした議会政をめざす議会派が対立しており、政治は安定していなかった。ウィレム3世の父のウィレム2世が1250年に24歳で病死するとその子のウイレムは赤児であったため、総督には就任できずオランダは無総督期(第1次)になった。ところがそこにクロムウェル航海法制定を機にイギリスとの対立が起こり、1652年から第1次英蘭戦争が勃発した。イギリスでクロムウェルの死後、王政復古となったが、チャールズ2世も航海法を再制定し、1662年に第2次英蘭戦争となった。さらに1667年にはフランスのルイ14世がフランドル戦争を起こし、ネーデルラント南部に侵入、オランダはイギリスとフランスという両強国を相手に戦わなければならなくなった。このようなときに市民の間からオラニエ家の復活を期待する声が強まった。オラニエ家はオラニエ公ウィレム以来、オランダ独立戦争の指導者としての名声が強かったからである。その声に応えて21歳のウィレム3世がオランダ総督に就任し、戦争指導にあたることになった。

フランス・イギリスの侵攻を撃退

 1672~78年にはフランス軍が侵略してオランダ戦争(オランダではオランダ侵略戦争という)となった。同時にルイ14世との密約によってカトリックに復帰しようとしていたイギリスのチャールズ2世が、フランスに協力して新教国オランダを攻撃、第3次英蘭戦争となった。
 ウィレム3世は陸上ではフランスの大軍に対して干拓地の堤防の堰を開く洪水作戦を敢行し、侵略に抵抗した。また海上でもオランダ海軍が善戦し、イギリスではチャールズに反発した議会が戦費の支出を拒否したため、侵攻を断念、イギリス・フランスの足並みが乱れた。そのため、フランス・イギリス両国によるオランダ侵攻は失敗し、それを撃退したウィレム3世の名声は大いに上がることとなった。
 その後、ルイ14世の領土的野心はなおも続いていたため、ウィレム3世はイギリスとの関係修復に踏み切り、チャールズ2世の子息のジェームズ(後のジェームズ2世)の娘メアリと結婚した。英蘭戦争で敵対していたイギリスとオランダが手を結んだのはこのような事情である。

イギリス王となった事情

 1688年、ジェームズ2世が父チャールズ2世に続いて審査法などを無視してカトリック復帰を策すると、イギリス議会のトーリ党ホィッグ党は結束してその排除を決意し、密かに使節をオランダに送って、ウィレム3世をイギリス国王に迎えようと打診した。ウィレム3世は母がチャールズ2世の娘であり、妻がジェームズ2世の娘メアリであったことと、新教国オランダの総督であるところから、国内のカトリック勢力やフランスを抑えるのに最も相応しいと考えたのである。妻メアリは父に敵対することになるが、夫とその宗教を選び、夫と共に国王になった。

イギリス上陸作戦 実態は征服

 イギリス議会の要請に応えるという形でウィレム3世は、1万4千の兵を率いてイギリスに上陸した。その実態は軍隊を率いての上陸作戦であり、国王ジェームズ2世側の反撃が予想されたが、国王軍の多くは国王を見放し動かなかった。それを見たジェームズ2世は戦意を喪失し、フランスに亡命せざるをえなかった。

名誉革命

 翌1689年、議会の提示した権利の宣言を受け容れてイギリス国王ウィリアム3世となり妻のメアリ2世と共同統治の形態を採り、権利の章典を公布した。これがイギリス史に言う名誉革命である。在位1689~1702年。 → ウィレム3世のイギリス遠征の意図については名誉革命の項を参照。

アイルランドとスコットランドの征服

 カトリック勢力はウィリアム3世を認めなかった。アイルランドを拠点にジェームズ2世を迎えて抵抗の姿勢を示したので、ウィリアム3世はオランダ人部隊とともにアイルランドに遠征し、カトリック軍を鎮圧した。ここでは流血の戦争が行われたのである(1690年7月1日のボイン川の戦い)。このウィリアム3世によるアイルランド征服によって、イングランドによるアイルランド植民地化はほぼ完成し、プロテスタント(国教会)によるカトリック差別というアイルランド問題が今後深刻になっていく。
 またウィリアム3世はスコットランドに対する征服活動も行い、1697年、ハイランドの豪族マクドナルド家を滅ぼし、次の1707年のイングランドによるスコットランド併合への道を開いた。

フランスとの対立

 名誉革命によってイギリスとオランダが同君王国となり、新教国連合として結束したことは、旧教国であり、オランダ征服を狙っていたフランスのルイ14世にとっては大きな障害となることであった。百年戦争終結(1453年)後はしばらくは直接対立することのなかったイギリスとフランス関係が悪化して、フランスはウィリアム3世の即位を認めず、直ちに宣戦布告した。こうしてフランスとの第2次百年戦争といわれる長期抗争に突入した。

ウィリアム3世の対外戦争

 1689年、ルイ14世はファルツ戦争を開始した。ウィリアム3世はオランダ総督としてドイツ諸侯・神聖ローマ皇帝・スペインなどとアウクスブルク同盟を結成して抗戦し、海上では92年にはノルマンディ沖でフランス海軍を破り、制海権を確保し、陸上でも同盟軍が有利に戦い、1697年ライスワイク条約で講和した。同時に北米においてはフランスとの植民地戦争であるウィリアム王戦争(1689~97年)を戦った。また、その間、ウィリアム3世は、ルイ14世に後押しされたジェームズ2世がアイルランドに上陸するとアイルランドに遠征し、1690年ボイン川の戦いで大勝した。なお、97年のライスワイク条約でルイ14世はようやくウィリアム3世をイギリス王として承認した。

財政革命と政党政治

 内政では議会と協調して立憲君主政を推し進めた。ウィリアム3世を支持する議会のホィッグ党は、対仏戦争の戦費を調達するために国債を発行することとし、1694年にイングランド銀行を設立した。これが現在各国が発行する国債の最初である。また、国債を発行して戦費をまかなうという財政政策、国立の銀行を設立するなどの新しい財政政策は、絶対王政時代には見られなかった、新しいやり方で、現代国家に通じるものである。この変革はウィリアム3世による財政革命ともよばれている。
 実質的に財政改革を進めたのは、ジェントリ層出身のホイッグ党員であった。ウィリアム3世はそれまで内閣の閣僚をトーリ、ホイッグ両党から選んでいたやり方をやめ、ホイッグ党だけで内閣を編成した。しかも戦争の長期化を嫌った地主たちが選挙でトーリ党を多く当選させると、トーリ党に内閣を編成させた。このように、議会で多数を占めた政党が内閣を構成するという政党政治が行われるようになった。

その後のイギリスとオランダ

 1701年スペイン継承戦争が起きると、イギリスはオランダ、オーストリアと三国同盟を結び、フランス・ルイ14世と対抗した。翌1702年、ウィリアム3世は乗馬中に馬が倒れ、肋骨を折ったのが原因で没した。メアリ2世との間に子供はなく、王位はメアリ(既に死去していた)の妹のアンに継承された。これによってイギリスとオランダの同君連合は解消されたが、オランダはその後再びオラニエ派と議会派の対立が再燃し、議会派が優位に立ってオラニエ家の総督就任を認めなかったので、第2次無総督期(1702~1747年)となる。その後18世紀を通じて、イギリスがフランスとの殖民地抗争に勝利して植民地大国となっていったのに対して、オランダは海軍力も次第に低下し、海外植民地を失って低迷することになる。
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ノートの参照
9章1節 ウ.イギリス議会政治の確立