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ジェームズ2世

王政復古期のステュアート朝イギリス国王。カトリック復興を強行しようとして議会の反発を受け、1688年の名誉革命で王位を失った。

 ピューリタン革命で処刑されたステュアート朝チャールズ1世の末子。王政復古をとげたチャールズ2世の弟であったが、チャールズ2世に継嗣がいなかったため、カトリック教徒であったジェームズの王位継承を認めるかどかで議会内に容認派であるトーリ党と反対派のホィッグ党の二党派がうまれた。結局王位継承が認められ、1685年に即位した(1688年まで)。 → イギリス(5)

カトリック復興を策し議会と対立

 フランス人を母とし、フランスで養育された熱烈なカトリック教徒で、兄以上の反動的な政策をとった。モンマス公の反乱(ジェームズ2世の即位に反対し、王位継承を主張したチャールズ2世の庶子モンマス公の反乱)を口実に常備軍を設置し、カトリック教徒の文武官任用を復活(審査法を事実上廃止)させ、87年には信仰自由宣言を発し、カトリック教徒の聖職就任を許可した。翌年、信仰自由宣言書を礼拝に2度読むことを強制、反対したカンタベリー大司教ら7名を逮捕するなど、国民の支持を失った。
 ジェームズ2世には娘が二人いた。長女メアリはプロテスタントでオランダのウィレム3世に嫁ぎ、妹のアンは独身で国教会信徒であった。ジェームズ2世には長く男子が生まれなかったが、1688年メアリとアン姉妹とは別な女性との間に男子が生まれると、カトリックの洗礼を受けさせた。議会は、将来は国教会信徒のアンが即位するという期待を抱き、ジェームズ2世の暴政に我慢していたが、これでカトリック復帰が本格化する怖れが出た。しかるべき手を打たなければならない事態に追い込まれたトーリ党とホイッグ党は、カトリック復帰阻止の一点で手を結び、ジェームズ2世追放を決意した。

名誉革命で亡命する

 1688年、議会が招聘したオランダのオレンジ公ウィレム3世とその妻メアリが上陸、もう一人の娘アンも議会側に走ったのでジェームズ2世は孤立し、12月23日イギリスを離れてフランスに亡命(名誉革命)、ルイ14世の提供してくれたサン=ジェルマンの隠れ家に身を寄せた。  なお、フランスを拠点にステュアート家ジェームズ2世の子孫をイギリス王位に復帰させようとする人びとがスコットランドを拠点にその後も活動を続け、ジョージ1世即位翌年の1715年には、その一派のジャコバイトの乱が起こったが鎮圧された。ジャコバイトとは、ジェームズのラテン名ジェイコブスに由来する。

『権利の章典』にみるジェームズ2世の「悪行」

 名誉革命の過程で、1689年に議会が決議し、新国王ウィリアム3世メアリ2世が承認して成立した『権利の章典』では、その最初の部分で、ジェームズ2世が如何に悪政を行ったか、詳しく12カ条をあげつらっている。そのいくつかを見てみよう。
  • 議会の同意なしに、法律を無視し、法律を執行しない権限を行使したこと。
  • 法律無視などをしないよう嘆願した高位聖職者を収監し、訴追したこと。
  • 大権に名を借りて、議会の認めた時期と態様とは異なる王の使用に供する金銭を徴収したこと。
  • 議会の同意なく、平時において常備軍を徴収したこと。
  • 議会の議員の選挙の自由を侵したこと。
  • 不公平で腐敗し、かつ資格の無いものを陪審員に選んだこと。
  • 過大な保釈金、過大な罰金、残虐な刑罰を課したこと。
 これらのジェームズ2世の悪行を否定した項目が『権利の章典』に取り上げられている。<高木八束・末延三次・宮沢俊義編『人権宣言集』岩波文庫 p.79-81>
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ノートの参照
9章1節 ウ.イギリス議会政治の確立