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ジェームズ2世

王政復古期のステュアート朝イギリス国王。1685年に即位し、カトリック復興を強行しようとして議会の反発を受け、1688年の名誉革命で王位を失った。

 ピューリタン革命で処刑されたステュアート朝チャールズ1世の末子。王政復古をとげたチャールズ2世の弟(ヨーク公)であった。
 ピューリタン革命が勃発、父チャールズ1世が処刑され、彼も幽閉されたが、後にフランスに亡命した。1660年、王政復古となって帰国、兄のチャールズ2世のもとで海軍総司令官任命され、英蘭戦争(第2次、第3次)ではオランダ海軍を破る活躍をした。しかし、熱心なカトリック教徒であったので、1673年、議会が審査法を制定したため、非国教徒として任を解かれた。

カトリック教徒で国王になる

 チャールズ2世に継嗣がいなかったため、カトリック教徒であったジェームズの王位継承を認めるかどうかで議会内で問題となり、容認派であるトーリ党と反対派のホィッグ党の二党派がうまれた。結局王位継承が認められ、1685年2月に即位した(1688年まで)。 → イギリス(5)

カトリック復興を策し議会と対立

 ジェームズ2世はフランス人を母とし、フランスで養育された熱烈なカトリック教徒であったので、兄以上の反動的な政策をとった。モンマス公の反乱(ジェームズ2世の即位に反対し、王位継承を主張したチャールズ2世の庶子モンマス公の反乱)を口実に常備軍を設置し、カトリック教徒の文武官任用を復活(審査法を事実上廃止)させ、1687年には信仰自由宣言を発し、カトリック教徒の聖職就任を許可した。翌年、礼拝で信仰自由宣言書を2度読むことを強制、反対したカンタベリー大司教ら7名を逮捕するなど、国民の支持を失った。

王位継承問題

 ジェームズ2世には娘が二人いた。二人とも父と違ってプロテスタントの国教会信者となった。長女メアリはオランダのウィレム3世に嫁ぎ、妹のアンは独身(後にデンマークの王族と結婚)だった。ジェームズ2世には長く男子が生まれなかったが、1688年にメアリとアン姉妹とは別な女性との間に男子が生まれると、カトリックの洗礼を受けさせた。議会は、将来は国教会信徒のアンが即位するという期待を抱き、ジェームズ2世の暴政に我慢していたが、次の王がまたカトリック信徒ではカトリック復帰が本格化する怖れが出てきた。しかるべき手を打たなければならない事態に追い込まれた議会のトーリ党とホイッグ党は、カトリック復帰阻止の一点で手を結び、ジェームズ2世追放を決意した。

名誉革命で亡命する

 1688年、議会が招聘したオランダのオレンジ公ウィレム3世とその妻メアリが軍を率いて上陸、もう一人の娘アンも議会側に走ったのでジェームズ2世は孤立し、12月23日にイギリスを離れてフランスに亡命、ルイ14世の提供してくれたサン=ジェルマンの隠れ家に身を寄せた。これが名誉革命といわれる政変である。

『権利の章典』にみるジェームズ2世の「悪行」

 名誉革命の過程で、1689年に議会が決議し、新国王ウィリアム3世メアリ2世が承認して成立した『権利の章典』では、その最初の部分で、ジェームズ2世が如何に悪政を行ったか、詳しく12カ条をあげつらっている。そのいくつかを見てみよう。
  • 議会の同意なしに、法律を無視し、法律を執行しない権限を行使したこと。
  • 法律無視などをしないよう嘆願した高位聖職者を収監し、訴追したこと。
  • 大権に名を借りて、議会の認めた時期と態様とは異なる王の使用に供する金銭を徴収したこと。
  • 議会の同意なく、平時において常備軍を徴収したこと。
  • 議会の議員の選挙の自由を侵したこと。
  • 不公平で腐敗し、かつ資格の無いものを陪審員に選んだこと。
  • 過大な保釈金、過大な罰金、残虐な刑罰を課したこと。
 これらのジェームズ2世の悪行を否定した項目が『権利の章典』に取り上げられている。<高木八束・末延三次・宮沢俊義編『人権宣言集』岩波文庫 p.79-81>

国王復帰に失敗

 ジェームズは、フランス王ルイ14世に保護され、イギリス復帰の機会を待った。アイルランドはカトリック教徒が多く、ウィリアム3世を国王と認めなかったので、翌年、ジェームズはフランス軍の支援を受けてアイルランドに渡り、再起を図ったが、乗り込んできたウィリアム3世のイギリス軍との1690年7月のボイン川の戦いに敗れ、再びフランスでの亡命生活を送ることになった。

ジャコバイトの反乱

 ジェームズは1701年にフランスのサンジェルマンで病死したが、その後もイギリス国内のカトリック教徒の中には、ステュアート家ジェームズ2世の子孫をイギリス王位に復帰させようとする人びとが残っていた。かれらは、ジェームズのラテン語読みがジェイコブス(ヤコブ)であったので、ジャコバイトと呼ばれた。特にスコットランドを拠点にその後も活動を続け、後のジョージ1世即位翌年の1715年には、その一派がジャコバイトの乱が起こしたが鎮圧された。
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