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アルブケルケ

ポルトガルのインド総督。1510年、ゴアを占領。さらにマラッカ、ホルムズも攻略した。ゴアを拠点にポルトガルがインド洋交易を支配する態勢をつくった。

 アルブケルケ Albuquerque 1453-1515 は、ポルトガルの第2代インド総督(インド副王)。1510年、海軍を率いてインドのゴアを襲撃し占領、インドにおける最初の植民地を建設した。ゴアを拠点にインド及び東南アジアへの進出を推し進め、1511年にはマラッカ王国からマラッカを奪い拠点を築いた。さらに香料諸島といわれたモルッカ諸島に進出した。
※アルブケルケは高校教科書では取り上げられていないが、ポルトガルのアジア進出では重要な役割を担った人物であり、入試でも取り上げられることがあるので、以下にやや詳しい説明を引用する。
「さていよいよポルトガル史上最大の英雄が初めて東洋にその姿を現すことになる。ダ・ガマやカブラルの如き、どちらかと言えば青年といってよい人々とは対照的に、1503年に従弟フランシスコと共に東方へ向けて船出した時のアフォンソ・デ・アルブケルケは、アフリカでの殊勲に輝く、既に髪に霜を置いた五十歳の老雄であった。」<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 .72>

アルブケルケの登場

 1503年 インド西海岸のコチンに直行。コチン藩王から商館とそれを守る城塞の建築を許される。アルブケルケ帰国後、カリカット藩王のサムリがコチンを攻撃。ペレイラの指揮するポルトガル守備隊が撃退し、サムリも戦死する。インドからの商品がリスボンからアントワープを経てヨーロッパにもたらされるようになると、ヴェネツィアが脅威を感じ、カイロのマムルーク朝スルタンを動かし、ポルトガルの撃退を図った。それに対して、ポルトガル王マヌエルはフランシスコ・ダ・アルメイダを司令長官兼インド副王に任じて大艦隊を送り出す。アルメイダは東アフリカに砦を築き、1509年ディウ沖の海戦で勝利を収めコチンに還った。

アルメイダと対立

 一方、すでに1506年にアルブケルケはインドに帰任、インド洋に出てマダガスカル周辺を巡航し、マリンディの王と同盟して南部ソマリアの諸都市を攻撃、さらにアラビア海に面したオマーン海岸の町々を征服し、さらにペルシア湾入口の要衝ホルムズ島を占拠したが確保には失敗した。インドのコチンに還ると、初代副王アルメイダと対立、一時投獄されたが、結局アルメイダは罷免され帰国し、ポルトガルのアジア支配の実権はアルブケルケに帰した。

ゴアの建設

 アルブケルケは、ヨーロッパの小国に過ぎないポルトガルがインド洋の広大な領域を支配するには根拠地として「東に一つ、西に二つ、中央に一つ」の4箇所で十分と考察し、マラッカ・ホルムズ・アデン・ゴアの4箇所をその拠点として撰んだ。1510年2月、ゴアに強襲を加えて奪取した。3ヶ月後に6万の熱狂的イスラーム教徒に奪回されたが、同年11月、アルブケルケは強大な装備を以て抵抗を排して再び同市を占領した。この地がインド総督としてのアルブケルケの首府となる。

マラッカの征服

 1511年7~8月、アルブケルケは艦隊を率いてマラッカ王国を強襲し、征服した。ゴアに倣って植民地が建設され、1641年にオランダ人の手に落ちるまでポルトガルのアジア支配の拠点とされた。アルブケルケはマラッカを拠点として東インド諸島に遠征隊を送り交易ルートを探させた。この時の遠征隊の副隊長がセルランで、その部下の士官の一人がマゼランであった。セルランの船は途中で難破し、モルッカ諸島の一つテルナテ島で救われ、その地にとどまりテルナテ王の軍師に収まった。ポルトガルがモルッカ島に到達したニュースがスペインに届くと、フェルナンド王はその地が1493年の教皇子午線によってスペイン領であると主張し、それを実証するために艦隊を派遣することとなった。その司令官に選ばれたのがセルランの航海に加わっていたポルトガル人マゼランだった。

ホルムズの征服

 アルブケルケは1513年、アラビア半島南端のアデン攻略を企図し、紅海からナイル川へのルートを開こうとした。紅海とナイル川を結ぶ運河をひき、ナイルの流れを変え、エジプトを干上がらせて、またメッカを劫略してムハンマドの棺を担ぎ出し、それを《聖地》との引き換えに利用するという構想を抱いていたという。しかし、ゴアの経営のためにインドに戻らねばならず、アデン攻略は実現しなかった。次に1515年ホルムズの奪取に成功したが、同年12月に死去した(ホルムズ島は1622年にサファヴィー朝アッバース1世に奪回される)。彼の死後、アデンは1524年にポルトガルの属領となった(1538年にオスマン帝国に奪われる)。

「ポルトガル帝国」の形成

(引用)アルブケルケは後世《ポルトガルの軍神》として知られる古強者に全く相応しい功業のもたらした一つの壮大な遺産を残した。それは次に三つの要因から成るものである。第一はホルムーズ、ゴア、マラッカの戦略拠点とその保護下にポルトガルの支配を強化するソファラ、モザンビーク、キルワ、モンバサ(アフリカ東岸)及びグジャラットのディウ(インド西北海岸)等の貿易副中心。第二はマヌエル王とその後継者に朝貢する土侯達に対する宗主権。第三はゴア地区の植民地化で、アルブケルケはここを海の彼方の《小ポルトガル》にする心算であった。ダ=ガマやカブラルが真正面からぶつかって行った回教徒通商網は僅かな年月の間に完全に過去のものとなり、そこにかわって座を占めたのは《ポルトガル帝国》であった。ヨーロッパの西南端にへばり付いた、人口もおそらく200万に満たぬ僻陬(へきすう)の国にしては、真に雄大を極めた成果と言う外はない!<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.78>
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ボイス・ペンローズ
荒尾克己訳
『大航海時代』
2020 ちくま学芸文庫