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ポルトガル

イベリア南西部に1143年に成立した王国。キリスト教をかかげ、13世紀までにレコンキスタを完了。15世紀にはヨーロッパ各国に先駆けて海外進出を開始、アフリカ南岸からインド洋に進出、主に西回りでアジアに通商圏を広げた。その過程で南米のブラジル、アフリカ各地、インドや中国での貿易拠点を植民地とする海洋帝国として繁栄した。しかし、一時スペインに併合されるなどして衰退し、⒚世紀からオランダ、イギリスの台頭によって交易圏も縮小させた。20世紀までに次々と植民地も独立、海外領土を失った。

 (1)国家の形成 → (2)大航海時代  (3)アジア・アフリカ進出  (4)ポルトガルの衰退  (5)アフリカ植民地の維持  (6)サラザール体制  (7)ポルトガルの民主化と現在

(1) 国家の形成

 イベリア半島南西部の国。首都はリスボン。この地はやはりイスラームの支配を受けていたが、カスティリャの勢力が伸びてきてイスラームの支配を次第に排除していった。
 ついでカスティリャに従っていたフランス系のポルトゥカーレ伯が自立し、1143年、カスティリャ王国から分離しポルトガル王国を建国した。1249年までにはレコンキスタを完了し、いち早く王権を確立させた。


(2) 大航海時代

発見のモニュメント
リスボンの港の「発見のモニュメント」。先頭に立つのがエンリケ王子。山川出版社『スペイン・ポルトガル史』口絵より

15世紀にポルトガルは海洋進出を開始、アフリカ西岸を南下し、黒人貿易などに乗り出した。その結果、1488年に喜望峰に到達し、大航海時代の先鞭をつけた。

 15世紀初め、ポルトガルのジョアン1世は、アフリカ西岸進出を開始、大航海時代に先鞭をつけた。まず、1415年にジブラルタルの入口にあたるモロッコのセウタを攻略し、ついでその子のエンリケ王子が主導して、1431年にアゾレス諸島、1445年にはヴェルデ岬に至った。ポルトガルはアフリカ西岸のギニア地方で金と黒人奴隷を獲得して利益を上げると、スペイン王国の進出に先手を打って、1455年にローマ教皇からキリスト教の布教を大義名分として、すでに「発見」され、さらに将来「発見」されるであろう非キリスト教世界における征服と貿易の独占権を認める教書を獲得した。
 次にジョアン2世は、1482年にはアフリカ西岸のギニア湾に面したエルミナ(現在のガーナ)に要塞を建設し、金・黒人奴隷・胡椒・象牙などの獲得拠点とした。このころから明確にアフリカ南端への到達と、インド洋への進出をめざすようになり、バルトロメウ=ディアスを派遣し、1488年に喜望峰に到達した。

スペインとの世界分割

 一方、スペインが派遣したコロンブスが1492年に西回りでインドに到達したことを主張していたので、ポルトガルとスペインは勢力圏の調整を行い、1493年に教皇子午線(教皇境界線)が設定され、その東をポルトガル、西をスペインが領有することが認められた。それに不満なポルトガルは翌1494年、直接交渉してトルデシリャス条約を結び、境界線を西にずらした。これが西欧諸国による植民地分界線の最初であった。その結果、アフリカ大陸とアジアはポルトガルの勢力圏とされただけでなく、後に発見されたブラジルがポルトガル領とされる根拠となった。
 ジョアン2世は1495年に死去、次のマヌエル1世(在位1495~1521)の時代にポルトガルの海外発展は最高潮に達した。ポルトガルの派遣したヴァスコ=ダ=ガマが1498年にカリカットに到達して、インド航路が開かれ、1510年にはゴアを占領してインド、東南アジア進出の拠点とし香辛料貿易を展開した。また、1500年にはカブラルが新大陸のトルデシリャス境界線東側に到達して、ポルトガル領ブラジルとして領有した。こうしてポルトガルの植民地帝国としての基礎が築かれ首都リスボンにはアフリカからの黒人奴隷・インドからの香辛料・ブラジルからの砂糖などがもたらされ、16世紀には世界経済の中心地として繁栄した。

ポルトガルの進出の理由

 15世紀前半のポルトガルは、人口は110万と推定されるにすぎない小国であった。そのような小国ポルトガルが、ヨーロッパ諸国の中で最初に海外に進出した(またそれができた)理由を現代の経済史家ウォーラーステインは次のように説明している。
「初期のポルトガル人探検・航海者の目的は、海上ルートによる金の探索(北アフリカの中継業者を出し抜いて直接スダンの金を獲得すること)であった。金と並んで香料も目的であったが、長期的な目的となったのは小麦・砂糖・魚肉・木材・衣料などの基礎商品の獲得である。過剰人口のはけ口説や宗教的情熱説は根拠が薄く、一種の「口実」である。ポルトガルが真っ先に対外進出ができた理由は、
(1)大西洋岸にあり、アフリカに隣接しているという地理的条件、
(2)すでに遠距離貿易の経験を持っていたこと、
(3)資本の調達が容易であったこと(ジェノヴァ人がヴェネツィアに対抗するため、ポルトガルに投資しており、リスボンで活躍していた商人の多くはジェノヴァ人であった)、
(4)他国が内乱に明け暮れていたのにポルトガルだけは平和を享受し、企業家が繁栄しうる環境があったこと、
の4点である。「ポルトガルこそは、当時のヨーロッパのなかで、内乱で混乱していないほとんど唯一の国家であった。」<I.ウォーラーステイン、川北稔訳『近代世界システムⅠ』1974 岩波現代選書 p.42~55より要約(2006 岩波モダン蔵シックスで復刊)>  → 資本主義的世界経済  近代世界システム

(3)ポルトガルのアジア・アフリカ進出

15世紀末~16世紀 ポルトガルは盛んにアジアに進出、インドに拠点を設け、中国・日本にも進出した。また東西アフリカ海岸に拠点を設け奴隷貿易とアジア貿易の拠点とした。

ポルトガル人来航の頃のインドの状況

 ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマの指揮する船団が、カリカットに来航したのは1498年。インドにムガル帝国が成立するより以前のことであり、当時インドには統一的政権は存在せず、とくに南インドにはヴィジャヤナガル王国(ヒンドゥー教国)やバフマン王国(イスラーム教国)などが対立している状態であった。またポルトガル進出以前のカリカットは、アラビアやエジプトからのムスリム商人が来航し、アラビア海はマムルーク朝の制海権のもとにおかれていた。また、15世紀の前半には明の鄭和艦隊がカリカットに来て、さらにアラビア海に進出していた。中国商人の活動は明が海禁政策をとったため衰えるが、アラビア海からベンガル湾を経て東南アジアに至る海域で、ヨーロッパ商人が進出するより遙か以前から、ムスリム商人・中国商人による活発な交易が行われていたことはしっかり認識しておく必要がある。

インドでの覇権

 ポルトガルはインドとの香辛料貿易からイスラーム勢力を排除して、その利益を独占しようとして海軍を派遣し、活動拠点を建設する必要を感じた。その任務のために常駐統括者として総督(インド副王)が1505年におかれた。初代はアルメイダは1509年にはディウ沖の海戦でマムルーク朝エジプトの海軍を破って紅海・アラビア海の制海権を握った。第2代がアルブケルケは、1510年にゴアを強制占領して拠点とした。ゴアはアジアにおける最初のヨーロッパ諸国による植民地となり、実に1961年にインドに返還されるまでポルトガル領であった。

西アジア・東南アジアへの進出

 ついで1510年にはスリランカ(セイロン島)を征服、1511年にいはマラッカ王国を滅ぼし、1515年にはペルシア湾入り口のホルムズ島を占領した(ホルムズ島は1622年、サファヴィー朝のアッバース1世によって奪回される)。1521年には香料諸島としれ知られるモルッカ諸島に城塞を建設、同年西回りでやってきたスペインと激しく争い、1529年のサラゴサ条約でアジアにおける両国の境界線を取り決めて、モルッカ諸島を勢力下に置いた。

香辛料貿易

 ポルトガル人の香辛料貿易はインドの土侯たちに火器などを代償としてカリカットなどマラバール産の胡椒を手に入れ、さらにマラッカから運ばれた丁子などの香辛料をゴアに集積し、インド航路でモザンビークなどを経由して喜望峰を回り、リスボンに持ち帰った。それは、従来のアラビア商人やエジプト商人から買うよりはきわめて安価に大量に得られる取引であった。商品はリスボンに運ばれてからアントウェルペンやロンドンに運ばれたので、リスボンにはドイツのフッガー家などのヨーロッパ各地から商人が集まり、彼らはポルトガルの国家事業である船団に出資し、利益を得た。今もリスボン港の付近から胡椒や陶磁器を満載したまま沈んだ沈没船が引き上げられることがある。

中国・日本への進出

 その勢力は明王朝の統治する中国に及び、1517年には広州で通商を開始、1557年ごろまでには広州に近いマカオに居住するようになった。一方、1543年ポルトガル商人の乗った中国人のジャンク船が種子島に漂着してから日本との接触も始まり、1550年には平戸に商館を設置し、九州の諸大名との通商を行うようになった。これは日本では南蛮貿易といわれ、ポルトガル商人は中国産の生糸を独占して安く買い取り、日本で高く売りつけて利益を上げたほか、宣教師を通じて鉄砲や火薬を大名に売りつけ、大名の中にはキリスト教を受け容れてキリシタン大名となるものも現れた。

ポルトガルのアフリカ植民地支配

 ヨーロッパ人のアフリカ大陸侵出の口火を切ったのがポルトガル人であった。1415年のセウタ攻略にはじまり、エンリケ王子の時、1431年にアゾレス諸島、1445年にアフリカ東端のヴェルデ岬を回航し、翌年には西アフリカの海上のカボベルデ島に到来した。
黒人奴隷貿易 ポルトガルはスペイン王国の進出に先手を打って、1455年にローマ教皇からキリスト教の布教を大義名分として、すでに「発見」され、さらに将来「発見」されるであろう非キリスト教世界における征服と貿易の独占権を認める教書を獲得した。それによってポルトガルはアフリカ西岸のギニア地方での金と黒人奴隷で大きな利益を上げ、1482年にはその拠点としてジョアン2世が現在のガーナの地にエルミナ要塞を建設した。さらに現在のナイジェリアの海岸のベニン王国に商館を置いた。またダホメ王国とも交易を行った。ギニア湾上に浮かぶサン=トメ島には奴隷貿易の中継基地が作られた。
コンゴからアンゴラへ 1485年からポルトガル人はコンゴ川(ポルトガル人はザイール川と名付けた)を遡りコンゴ王国と接触した。ポルトガルは宣教師を送り込み、コンゴ王国のキリスト教化を図った。コンゴ王国はポルトガルの影響下でキリスト教化が進んだが、植民地支配のもくろみは阻まれ、その矛先は南のアンゴラに向かっていった。
インド航路 1492年、スペイン王が派遣したコロンブスが西回りで新大陸に到達したことから、スペインとポルトガルは1494年にトルデシリャス条約で世界分割協定を行い、ポルトガルは東半球の支配権を得て、東廻り航路でインドに到達することを急いだ。すでに1488年にバルトロメウ=ディアスがアフリカ最南端の喜望峰に到達していたが、ついに1498年にヴァスコ=ダ=ガマ船団がアフリカ南端を開港してインド洋に入り、カリカットに到達してインド航路の開拓した。それに伴ってインドへの寄港地、補給地として重要性を増したアフリカの東海岸への拠点建設が急がれることとなった。
東海岸に進出 16世紀に入るとインド副王となったアルメイダは、アフリカ東岸のソファラキルワモンバサを次々と攻略し要塞を建設、さらに07年にはモザンビーク島を占領した。こうしてアラビア海においてイスラーム商人を駆逐し、1509年のディウ沖の海戦マムルーク朝海軍を破り、制海権を獲得した。
 15世紀から始まったポルトガルの黒人奴隷貿易は19世紀半ばまで続いた。当初、その支配は奴隷貿易とアジア貿易の帆船の寄港地としての港市に限定されていたが、その維持は困難でケープ植民地は放棄された。またモンバサは1698年にオマーンのイスラム政権の軍に攻撃されて陥落した。またギニア湾岸のベニン王国はオランダ、次いでイギリスが進出したため放棄した。ダホメ王国にはフランスが進出したためポルトガルは後退した。
ポルトガル植民地の形成 16世紀末から17世紀にかけて、オランダとイギリスがインド洋貿易に進出し、インドではイギリスの、東南アジアではオランダの覇権が出来上がると、ポルトガルはアジア貿易から後退せざるを得なくなった。それに代わって、アフリカ内陸の植民地化に努めるようになり、西海岸のアンゴラギニアビサウ、東海岸にモザンビークがポルトガル領となり、ブラジルとともにポルトガルの植民地帝国としての富の源泉となった。
 19世紀にはブラジルは独立したが、アフリカ植民地はさらに維持され、1884~85年のアフリカ分割に関するベルリン会議の結果、正式にポルトガル領となった。第二次世界大戦後のアフリカ諸国の独立の動きの中でも最も遅れて、ポルトガル領アフリカ植民地の独立が達成されるのは1974年であった。

(4)ポルトガルの衰退

1580年にスペインと合同王国となり、また海外領土の多くをオランダとイギリスに奪われて、急速に衰退した。

スペインによる併合

 1578年、ポルトガルのセバスチャン国王はモロッコ遠征中にベルベル人との戦いで戦死、次の王エンリケは老人で1年後に死去、これにによってアヴィス朝が断絶した。それを受けて1580年に、スペイン国王フェリペ2世がポルトガル王位の継承権を主張、ポルトガルの身分制議会コルテスもそれを承認して、スペインによるポルトガル併合が行われた。スペイン王フェリペ2世はポルトガル王としてはフェリペ1世として両国王を兼ねた。

アジアでのポルトガルの後退

 その後、1640年に独立を回復するが、この約60年間のスペインへの併合期間にポルトガルのインド洋・東インド諸島での繁栄は失われた。1600年にはモルッカ諸島、1609年にはセイロン島をいずれもオランダに奪取され、1622年にはホルムズをイギリスとサファビー朝アッバース1世の連合軍に奪われた。また、17世紀には東アジアでもさかんにポルトガル船を襲撃するようになったオランダ商船は、1609年には日本の平戸に商館を設けてポルトガルと競合するようになった。またイギリスも17世紀から東アジアにも進出、同じく平戸に商館を設けた。新教国であったオランダとイギリスは、旧教国ポルトガル・スペインがキリスト教布教を通じて植民地化を策謀していると盛んに訴えたので、江戸幕府は次第にキリスト教の禁止に傾き、ついに鎖国に踏み切って1639年にポルトガル人は来航禁止となった。マカオのポルトガル政庁と商人は日本に使節を送り、貿易の再開を懇請したが、幕府は拒否し、使節団を捕らえて処刑してしまった。このとき、江戸幕府はポルトガルの報復攻撃を恐れて西国の大名に警備を命じたが、ポルトガルにはその力はなく、日本との貿易が再開されることはなかった。さらに1641年にはマラッカをオランダに占領された。
 この一連の動きは、ポルトガルがスペインに併合された結果、アフリカ海岸からインド洋、南シナ海、東シナ海におよぶ広大な海域を管轄しなければならなくなったところに無理が生じたということであろう。これらの海域の間隙をついてオランダ、イギリスの商船が進出すると、ポルトガル商船はその餌食とならざるを得なかった。

ポルトガルの独立回復

 1580年以来、スペインに併合されていたポルトガルで独立運動が起き、ブラガンサ家を中心に結束したポルトガル人が、1640年に独立の回復を実現した。ポルトガルの反乱が起こった1640年には、スペインでカタルーニャの農民反乱も起こっている。また三十年戦争の終わりごろにさしかかり、スペインはフランスとの戦争で苦境に立つことになる。独立再開後のポルトガルは、イギリスとの提携を強めていく。

ポルトガル植民地の動向

 ポルトガルは1580~1640年の間はスペインに併合され、17世紀にはオランダ、イギリスに押されて後退し、独立を回復した後の17世紀後半にも、植民地支配は後退して行き、1664年にはインドのコチンを失った。 アジアにおけるポルトガル領は、インドのゴア、インドネシアの東ティモール、中国ではマカオ(1887年に正式にポルトガル領となる)などのみとなった。アフリカでは、西岸のアンゴラギニア・ビサウ、東岸のモザンビークだけとなったが、南米大陸の広大なブラジルはポルトガル領とし維持され、金鉱が発見されるとポルトガル経済を支えることとなった。

(5)植民地帝国の維持

ポルトガルは17世紀後半から、オランダ、イギリスに押され、アジア貿易の拠点を失っていったが、南米大陸のブラジル、アフリカ大陸東岸などの広大な植民地は維持し、小国ポルトガルは広大な植民地帝国として存続した。1807年、ブラジルが独立した後も、東アフリカ植民地とアジアではゴア、マカオなどは残った。

 17世紀後半から、インドなどアジア貿易からは後退したが、南米大陸のブラジル、アフリカ大陸東岸などでは植民地を維持し、ポルトガルは植民地の富を吸収する植民地帝国として存続した。しかし、1807年、ナポレオン軍に征服された際、ブラジルが独立、ポルトガルの植民地はインドのゴア、中国のマカオ、アフリカ東岸のアンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウ、東南アジアでは東ティモールだけとなった。

ブラジルの領有

 ブラジルは1500年にポルトガルの航海者カブラルが偶然に到達し、その地がトルデシリャス条約で定められた東西分割線でポルトガル領とされた西側に入っていたことから、その領土に組み込まれた。そして1693年に金鉱が発見され、植民地としての重要さを増すこととなり、18世紀からはコーヒーが導入され、ポルトガルに大きな富をもたらした。
ブラジルの金で得た黄金時代 ジョアン5世(在位1706~50)は「ブラジル金の威力をもって文字通りポルトガル近世の黄金期を現出した」と言われている。ジョアン5世はフランス国王ルイ14世を見習って絶対君主としてふるまい、リスボンに歌劇場を開設したり、王立歴史学アカデミーを創設するなど啓蒙君主としてもふるまった。1701年に起こったスペイン継承戦争では、イギリスと同盟してフランス・スペインと戦い、スペインからアマゾン川両岸とラ=プラタ川東岸を獲得した。それらはさらに金の山地としてポルトガル経済を支えることとなった。さらにジョアン5世は、1750年のスペインとのマドリード条約で、ラ=プラタ川東岸を与える代わりにトルデシリャス条約の分界線を遥かに超えた西側の領土を獲得、実質的にトルデシリャス条約を無効とし、現在のブラジルの範囲と同じ境界線を儲けることに成功した。

大地震と改革失敗

 1755年11月1日、リスボンは大地震に襲われ、大火災と津波によって1万5千人が犠牲となり、首都は壊滅した。この時の死者は6~10万に上り、市民の3分の2にあたっていたという数字も上げられている。このリスボン大地震は、大航海時代のポルトガルの繁栄の完全な終わりを告げる者となった。
 この大災害からの復興を指導したのが下層貴族出身のポンバル侯爵であった。国王から全権を委ねられた侯爵は辣腕を振るし、まったく新しい都市計画でリスボンを復興させ、その勢いで強権的な上からの改革を行った。絶対王政の体制をめざしながら、イエズス会や異端審問所などの守旧勢力を次々と追放、解散させ、一方でイギリスとの交易による経済成長を図った。しかし、ポンバル侯爵の専制的な手腕は国王との対立をもたらし、1777年に失脚、ポルトガルの改革も途絶え、再び低迷に陥った。そのようなポルトガルを覚醒させる出来事は、ピレネー山脈の北からやって来た。

ナポレオンのポルトガル征服

 フランス革命が起こり、さらにナポレオンが登場すると、ポルトガルは一貫してイギリスとの同盟関係を維持した。隣国スペインを支配下においたナポレオンは、1806年、大陸封鎖令を発し、ポルトガルに対してもイギリスとの断絶を強く迫った。1807年、ついにナポレオンのポルトガル征服が開始された。スペインもまたナポレオンに協力し、フランス・スペイン連合軍がジュノー将軍に率いられて侵攻してきた。ポルトガル王室は程・の意図がなく、1万人を超える随員を従えてブラジルに避難してしまった。  ナポレオン軍の侵攻はポルトガルを大きく混乱させ、ナポレオン軍撤退後にはブラジルが1822年に独立した。ポルトガルも独立を回復したが、ブラジルという最大の植民地を失い、植民地帝国としては終わりを告げた。
 こうしてポルトガルは19世紀にはヨーロッパでもっとも貧しい国の一つになってしまったが、その植民地経営も効率が悪く、その没落を食い止められなかった。

独立が最も遅れたポルトガル領アフリカ植民地

 第二次世界大戦後、アフリカ諸地域で民族独立運動が活発となり、1960年の「アフリカの年」にピークとなった。その後もアフリカ諸国の独立が相次ぎ、イギリス・フランス・ドイツなどの植民地は次々と独立していった。しかしその中で、ポルトガル領とベルギー領の独立はなかなか進まなかった。
 アフリカのポルトガル領植民地の独立が遅かったのは、本国の独裁体制と遅れた経済体制が植民地の経済を停滞させ、また植民地における人権抑圧に対する本国内部での批判が起こってこなかったためである。1961年から、アンゴラなどで独立運動が始まり、それが本国のサラザールの独裁体制を動揺させ、1974年に植民地・本国同時革命が起こって独裁帝政が倒されるとともに、植民地の独立も実現した。

(6)サラザール体制

国内では1932年に植民地の維持を掲げるサラザール独裁体制が成立、独裁体制とアフリカ植民地は第二次世界大戦後、1970年代まで続いた。1974年クーデターによって独裁政権が倒され、76年から民主化が始まる。

サラザール独裁体制

 1932年にサラザール政権が成立し、それが戦後の1968年まで続き、その間本国でも人権抑圧、腐敗が進んだため、その植民地でも貧困と圧政が続いた。
 第二次世界大戦後も隣国スペインのフランコ体制と同じく、サラザール独裁体制が維持されていた。その間、言論の自由や民主化は押されられ、経済も停滞してヨーロッパでもっとも遅れた国家となっていた。
 国際政治では結成当初からNATOの一員として西側の軍事機構に組み込まれている。これは、大西洋上のアゾレス諸島を領有していたことの戦略的意味が大きい。当時はサラザール独裁体制が続いており、西欧諸国の批判は強く、当時はポルトガルはNATOの恥部といわれた。

植民地支配の矛盾

 経済的にはアンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウのアフリカ植民地支配に依存し、フランス領やイギリス領のアフリカ諸国の独立にもかかわらずポルトガル領は独立が認められなかった。
 1961年からポルトガル領でも独立運動が始まると、ポルトガル軍は植民地維持のため厳しい弾圧を行い、闘争は泥沼化し、次第に国内に疲弊感が強まった。前年の1960年はアフリカの年と言われるアフリカ諸国の独立が続き、国連総会も植民地の独立を促す決議がなされ、ポルトガルのアジア支配の拠点であったゴアに対してインドが実力を行使して接収し、ポルトガルはそれを認めざるを得なかった。

(7)ポルトガルの民主化と現在

1974年クーデターによって独裁政権が倒され、76年から民主化が始まった。EUに加盟したが、経済的立ち後れが続いている。

 ポルトガルはイベリア半島に南西部に位置する。現在、面積は日本の4分の1、人口は約1000万。首都はリスボン。宗教はカトリックが大多数を占めている。世界史上は、15世紀のエンリケ航海王子以来の大航海時代の繁栄、日本への鉄砲伝来、アフリカでの植民地支配が重要事項。
 1974年のポルトガル民主化(ポルトガル革命、カーネーション革命ともいう)で40年以上に渡った独裁政治を倒し、国内政治の民主化を実現すると共に、アフリカの植民地の独立を次々と認め、植民地大国としての地位も放棄した。

カーネーション革命

 1968年にサラザールは病死したが、後継者カエターノの独裁体制が続いた。反体制を唱えるスピノラ将軍ら国軍運動(MAF)が始まり、1974年4月25日、クーデターに成功、ほぼ無血で独裁体制は倒され、新政権は植民地の放棄を表明した。この変革をカーネーション革命という。
 このポルトガル1974年革命によって42年にわたったサラザール・カエターノ独裁体制は崩壊、また500年にわたった植民地帝国も終わりを告げた。その後国軍左派による軍政が敷かれ、産業国有化や農地改革などの民主化が行われたが経済が悪化したため、76年に民政に移管、総選挙で社会党が第一党となりソアレス内閣が成立し、本格的な民主化を開始した。

植民地の放棄

 500年にわたるポルトガルの植民地支配が終わりを告げた。アフリカのポルトガル領植民地であった、アンゴラモザンビークギニアビサウの独立が認められた。
 東南アジアに残ったポルトガル領の東ティモールも独立を宣言したが、隣接するインドネシアのスハルト政権によって武力併合された。またマカオは、1976年に大幅な自治を認め、1999年に中国へのマカオ返還が実現した。

EUとポルトガル

 ヨーロッパの統合の動きには政治上の独裁体制や経済停滞が続いたために遅れたが、1986年にスペインと共にヨーロッパ共同体(EC)に加盟した。そのままヨーロッパ連合(EU)の一員となり、ユーロも導入しているが、ユーロ圏ではその経済力の不足がドイツなどの先進国から警戒されている。
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ノートの参照
5章3節 ケ.スペインとポルトガル
8章1節 ア.大航海時代
9章2節 ア.アジア市場の興亡
書籍案内

金七紀夫『ポルトガル史』
1996 彩流社

I.ウォーラーステイン、川北稔訳
『近代世界システムⅠ』1974 岩波書店