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フェルナンド5世

アラゴンの王子でカスティリャのイサベルと結婚し、1479年からスペイン王国を共同統治した。1492年にはレコンキスタを完了させた。シチリア王を兼ね、イタリア戦争ではフランスを破り、ナポリ王位も獲得。南イタリアに勢力を伸ばした。

 アラゴン王国の王子であった1469年に隣国カスティリャ王国の王女イサベルと結婚し、1474年、イサベルがカスティリャ国王となると共同統治を行った。1479年、フェルナンド2世としてアラゴン国王となり、これによってカスティリャとアラゴンは合同し、スペイン王国となった。 → イベリア半島

スペインのカトリック両王

 イサベルとフェルナンドは同権の共同統治を行い、カトリック両王といわれた。彼は統一スペインの王としてはフェルナンド5世と称し、アラゴン王であると同時にシチリア王でもあり、後にはナポリ王位も兼ねることになる。統合の際の契約で、カスティリャの優位が規定されており、アラゴン王は実力としては下位に立ち、条件であったレコンキスタの遂行も主としてカスティリヤの力で行われ、1492年1月にグラナダが陥落して完了した。また、同年のコロンブスの航海もイサベルの主導権で実施された。

南イタリアを巡るフランスとの抗争

 領土拡張と内政面ではカスティリヤ女王である妻のイサベルが優位に立っていたが、ヨーロッパ国際社会の外交では夫のフェルナンドの方が華々しく活躍している。アラゴン王としてのフェルナンドは、カスティリャとの合同を成し遂げたので、地中海方面、特に南イタリアの支配権を巡るフランスとの抗争に力を注ぐことができるようになった。
 1494年にフランス王シャルル8世ナポリ王国の王位継承権を主張してイタリアに侵入して、イタリア戦争が勃発すると、ローマ教皇アレクサンドル6世、神聖ローマ皇帝ハプスブルク家マクシミリアン1世、ヴェネティア、フィレンツェなどと神聖同盟を結んでフランス軍の退路を断ち、敗北に追い込んだ。この際のフェルナンドの外交力はマキァヴェリが『君主論』の第21章で高く評価し、彼を新しい型の君主であるとしてほめている。
 さらにフェルナンド5世はローマ教皇らと結んでフランスに反撃、1504年にはフランス王ルイ12世と戦い、ナポリ王国を併合した。ところが、1508年にローマ教皇ユリウス2世ヴェネツィア共和国と対立すると、フランス王ルイ12世と神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とともにカンブレー同盟をむすび、ヴェネティアと戦った。しかし、フランス王ルイ12世が北イタリアで勢力を強めると、一転してローマ教皇、ヴェネティア、スイスと「神聖同盟」を結成、1512年ラヴェンナの戦いでフランス軍と戦った。

没後のスペイン王位の継承

 イサベルの死(1504年)後は、2度カスティリャの摂政を務めた。1516年に没したが、フェルナンド5世とイサベル女王のあいだには男子はなく、王位は娘ファナが嫁いだハプスブルク家のフィリップ(神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の子)の子のカルロス1世が継承し(スペイン王として在位1516~56年)、スペインはハプスブルク家の領土となる。このカルロス1世は1519年、マクシミリアン1世の次ぎに神聖ローマ帝国皇帝に選出され、カール5世となる。
 なお、次女のカザリン(英語表記ではキャサリン)は、イギリス王ヘンリ8世の王妃となり、一時スペインとイギリスは良好な関係にあったが、離婚問題からイギリス宗教改革に発展したことから、関係が悪化した。
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ノートの参照
5章3節 ケ.スペインとポルトガル