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サロン

17世紀、ルイ13世時代に始まる社交場。貴族の女性に始まったが、ブルジョワにも広がり、18世紀には文化・芸術の発信地となり、フランス革命では議論の場となった。近代では議論の場はクラブに移り、政治議論は政党へと移った。

 サロンの始まりはルイ13世、宰相リシュリューの時代であった。先代のアンリ4世までは厳しい宗教戦争の時代であったこともあって、宮廷内は殺伐とし、暗殺や決闘が日常であった。ルイ13世の時代になると宰相リシュリューの巧みな統治もあって宮廷の貴族たちの中にも無骨な騎士風の振る舞いよりも礼節ある洗練された物腰が好まれるようになった。そのような時代背景の中で、ランブイエ侯爵夫人カトリーヌ=ド=ヴィヴォンヌは外交官の娘として経験したローマ教皇庁での洗練された社交場をフランスに持ち込み、サロンを開設した。それがフランスのサロンの始まりと言われている。
 サロンとは客間を意味する言葉であるが、そこで交わされる思想の交流、詩や散文などの発表と批評、といった知的交流を意味するようになった。ランブイエ邸のサロンは評判になり、1640年ごろまで続き、それ以外にも二ノン=ド=ランクロ、スキューデリ嬢、サブレ夫人、セヴィニエ夫人などのサロンが、貴族や上流ブルジョワの間に生まれ、17世紀末にはパリで少なくとも800のサロンがあったという。17世紀フランス文学を代表するラ=ファイエット夫人の『クレーヴの奥方』(1678)やラ=ロシュフコーの『箴言集』(1665)などはサロンを背景に生まれた。

フランス革命とサロン

 18世紀末のフランス革命の時代も、サロンは各地で開かれ、革命勢力各派の拠点となった。たとえば、ジロンド派はロランの妻であるマノン=ロラン(一般にロラン夫人)のサロンから生まれ、共和主義者はロベール夫人のサロンに集まった。オルレアン派はジャンリ夫人のサロンが中心となり、ロベスピエールはデュプレ夫人のサロンに出入りしては国王批判を繰り返した。またボーアルネ夫人のサロンは国民議会の前身のような役割を果たしたと言われる。(〇〇夫人という表現は慣例に従った)

サロンとクラブ

(引用)十八世紀フランスは婦人のサロンを培養した。サロンを主催したのは高等淫売婦(コールガール)や、王の愛妾や、貴婦人たちだった。革命が起こり、民主主義の世となると、貴族のサロンにかわってクラブ――つまり貧民の《サロン》――が登場する。ジャコバン派の諸クラブがフランスじゅうに大きな網を張りひろげる。でもそれらクラブも、やがて革命の敗北とともに滅びさり、ふたたびサロンが反動勢力をよりどころに政治的影響力をとりもどしはじめる、という巡り合わせた。<ガリーナ・セレブリャコワ/西本昭治訳『フランス革命期の女たち』(下)1973 岩波新書 p.102>
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ガリーナ・セレブリャコワ
西本昭治訳
『フランス革命期の女たち』(下)
1973 岩波新書