印刷 | 通常画面に戻る |

フランス革命

1789年に勃発した、ブルボン絶対王政を倒した市民革命。

 フランス革命は、ブルボン朝絶対王政を倒した市民革命(ブルジョア革命)である。アメリカ独立革命に続いて大西洋をはさんで起こった一連の革命は、市民社会の形成をもたらし、19世紀以降の「西欧世界」主導の世界史の流れを作った、いわゆる「大西洋革命」の一環であり、また同時に展開されたイギリスの「産業革命」と並行する「二重革命」として、「近代資本主義社会」を完成させた動きととらえることが出来る。

フランス革命の思想的背景

 ルネサンスに始まる人間解放の思想が宗教改革を経て、封建社会の教会や王権の絶対的権威を揺らぐなかで生まれたヴォルテールやルソーなどの啓蒙思想が直接的に影響を与え、またイギリス革命で形成された社会契約説アメリカ独立宣言の革命権の思想がフランス革命に結実した。

フランス革命の時期区分

 フランス革命の時期を、いつまでととらえるかにはいろいろな考え方がある。一般にナポレオンの権力掌握までを革命の時期として扱うが、ナポレオン時代も広くフランス革命の一部ととらえることも可能である。ここでは一応、1799年のナポレオンの権力掌握までをフランス革命の時期ととらえ、その展開を4段階に整理した。各段階の要点は次の通り。

第1段階 1789~1791=絶対王政から立憲君主政へ

:18世紀のブルボン朝のアンシャン=レジーム下では対外戦争と宮廷の奢侈などによる財政難が進行し、ルイ16世は貴族に対しても新たな課税を必要とし、その同意を取るために三部会を招集したが、そこに結集した第三身分の代表は、国民議会の開催を宣言し、憲法制定まで解散しないとして球戯場の誓いを行った。国王は郡代を動員して国民議会に圧力を加えて解散させようとした。宮廷で特権身分への課税などの財政改革を進めていたネッケルが罷免されたことをきっかけに、1789年7月14日、パリの民衆のバスティーユ牢獄襲撃の暴動が起こり、革命に転化した。農村では領主が農民を襲うと言う噂がひろがり、それにおびえた農民(このことを大恐怖という)が、領主の館を襲うという暴動が発生した。そのような緊迫した情勢の中で、国民議会は人権宣言封建的特権の廃止などの決議を行った。国民議会は当初は開明的な「愛国派」といわれる貴族が指導して、立憲王政の樹立をめざしたが、国王は国民議会の決議を承認しなかった。おりからの凶作のために食糧が高騰したことに怒ったパリの女性たちが、10月にヴェルサイユ行進を行って国王に迫り、国王は議会の決議の承認とパンを約束した上でパリに連行され、また議会もヴェルサイユからパリに移り、革命の舞台はパリの市民の眼前に置かれることになった。この時パリに革命推進の政治組織としてジャコバン=クラブが結成され、活動を開始したがその内部では立憲君主政、穏健な共和政、急進的な共和制などさまざまな主張が対立した。しかし当面の財政問題では結束して1789年11月に教会財産の没収=国有化を決定し、この資産を担保としてアッシニアという国債を発行し財源に充てることとした。アッシニアは翌年、強制通用力のある紙幣に切り換えた。また1790年、議会は聖職者基本法を定め、教会を国家管理下に置くこととした。これに対しては地方で激しい反発が起き、後のヴァンデーの農民反乱の背景となる。こうして革命が進行すると亡命貴族による国外からの反革命の動きも強まり、それらと結んだルイ16世が、1791年6月、国外逃亡を図るというヴァレンヌ事件がおき、国王の失態は国民の支持を失った。しかし、ラファイエット、バルナーブら立憲君主政を主張するフイヤン派は、王政廃止を要求する共和派と市民を1791年7月のシャン=ド=マルスの虐殺で弾圧した。国民議会は9月、立憲君主政のもとで制限選挙、一院制から成るフランス最初の憲法である1791年憲法を制定して役割を終えた。一方で、オーストリア・プロイセンなど外国勢力の革命への干渉が強まてきた。

第2段階 1791~92=立憲君主政から共和政へ

1791年憲法に基づき、立法議会が成立すると、立憲君主政維持を図るフイヤン派と共和政実現をはかるジロンド派が対立した。ジロンド派は革命干渉軍に対する戦争を主張して内閣を組織し、オーストリアとの開戦に踏み切った。この1792年に始まったフランス革命戦争は、1814年までヨーロッパ全土をまきこむ戦争に転化していく。緒戦ではフランス革命軍はオーストリア・プロイセン軍に敗れ、外国軍がパリに迫る危機となった。そのためジロンド派内閣は辞職したが、全国から連盟兵(義勇兵)がパリに集結し、またパリ市民のサンキュロットと言われる下層民も蹶起してティユルリー宮殿の国王を襲撃するという8月10日事件(第二革命)が起き、立法議会は王権停止と新議会招集を決めて解散した。男性普通選挙が実施され、1792年9月20日に国民公会が招集され、その同じに日にヴァルミーの戦いでプロイセン軍に勝利して一旦、フランス軍は劣勢を挽回した。翌9月21日、国民公会は王政廃止を決定し、第一共和政が開始され、9月22日から共和国第1年とすべての公文書に記載することが決まった。こうして革命干渉軍に対する革命防衛戦争が始まったことによって、軍隊の主体は中世的な傭兵に代わり、近代的な国民軍の形成をうながすことになった。

第3段階 1793.1~94.7=急進的共和政の展開

 1793年1月、国王16世の処刑が山岳派の主張によって決定され、執行されると、反発したイギリスなどが第1回対仏大同盟を結成して、再び対外的緊張が始まり、さらに国内でもヴァンデーの反乱など反革命の暴動が各地に起きるなど、不安が広まった。革命を防衛し、共和政を確立するため、国民公会は3月から4月にかけて外交・行政の全権を握る公安委員会、反革命を取り締まる保安委員会、反革命の容疑者を裁く革命裁判所などを設置した。国民公会では、革命のこれ以上の進行を望まないブルジョワの支持を受けたジロンド派が優勢であったが、急進派である山岳派も台頭し、両派の対立が深まっていった。ジロンド派は地域分権的な連邦主義を主張したが、ジャコバン派はパリへの中央集権を強化する立場でそれに反対した。そのような中で、再びパリのサンキュロットが蹶起して1793年6月、国民公会からジロンド派の追放され、山岳派が実権を握った。このころから山岳派はジャコバン派といわれるようになる。
 1793年6月に権力を握ったジャコバン派のロベスピエールは急進的な共和政をめざす独裁政治を推し進めた。まず6月中に1793年憲法を制定し、人民主権を明確に打ち出し、財産資格による制限のない普通選挙などを盛り込んだ(しかしこの憲法は緊急事態が収まるまで実施が延期され、結局実施されなかった)。さらに7月には封建地代の無条件無償廃止などが実現した。ロベスピエールは革命の執行機関として公安委員会を抑え、さらに非常時大権を認められて、反革命の取り締まりを実行し、王党派・立憲君主派の残党、ジロンド派を次々とギロチンにかけ、恐怖政治と言われて恐れられた。一方、最高価格令徴兵制の施行、革命暦メートル法の制定など、生活の細部に至る統制を強めた。ロベスピエールはさらに左派のエベール、右派のダントンを排除し、独裁体制を強め、最高存在の祭典を主催して革命精神の徹底をはかった。
 しかし、恐怖政治というテロルや日常生活の細部に及ぶ厳格な革命理念の強制や経済統制は、次第に民衆の支持を失い、1794年7月、テルミドールのクーデタによってロベスピエールが捕らえられ、ジャコバン独裁政府は倒された。

第4段階 1794.7-99.11=総裁政府からナポレオンの登場へ

:革命干渉軍の脅威も去り、戦争の危機が遠のくと、ブルジョワの大勢は社会の安定を望み、財産の確保と自由競争の経済を望むようになった。また、ジャコバン独裁の時に実現した封建地代の完全無償廃止によって農民は私有財産として土地をもつようになり、特に地主層・自営農民は保守化したため、革命のこれ以上の進行を望まなくなった。そのような情勢とロベスピエールの革命理念は大きく乖離していた。こうして、穏健な共和派(テルミドール派)の主導する総裁政府が成立した。1795年憲法(共和暦第3年憲法)は私有財産の不可侵をうたい、財産資格による制限選挙を復活させた。しかし、革命前に戻そうという王党派の反乱や、社会改革を徹底させようという左派のバブーフの蜂起計画などが起こり、不安定であった。そのような中、政治の安定とフランスの膨張を望む、保守化した農民や都市の小市民の支持を受けて、軍人のナポレオンが登場し、イタリア遠征やエジプト遠征で名声を高めた後、1799年のブリュメール18日のクーデタで総裁政府を倒し、新たに統領政府を樹立、自ら第一統領となって、将来の独裁、皇帝への道を開いた。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第11章3節(1) ア.フランス革命の構造
第11章3節(1) イ.立憲君主政の成立
第11章3節(1) ウ.戦争と共和政
書籍案内
河野健二
『フランス革命小史』
1959 岩波新書
『フランス革命史』
ブリュシュ、リアル、テュラール/国府田武訳
『フランス革命史』
文庫クセジュ 白水社 1992