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リシュリュー

17世紀前半、ルイ13世の宰相として国力を増大させた。国内では新教徒を弾圧したが、三十年戦争では新教国を支援した。

 1624年から1642年の間、フランスのルイ13世の宰相を務めた政治家。もともとは聖職者であり、ヴァンデ地方リュソンの司教のとき、1614年の三部会に代表として参加し、頭角を現した。母后マリー=ド=メディシスの信頼を得て、1622年に枢機卿となる。マリーらの退陣後の1624年からルイ13世の厚い信任を得て宰相となり実権を握った。

リシュリューの政治

 彼はまず、イギリスの応援を受けていた新教徒(ユグノー)の拠点ラ・ロシェルを攻撃して陥落させ(1629年)、また王権に対抗する貴族を抑え(サン=マール事件、ルイ13世の寵臣をスペインと通じているとして処刑した)て王権強化に努めた。三部会も先に1614年以来、召集しなかった。また当時も思い封建的な負担に対する農民の反乱が起こっていたが、1636年には「ヴァ=ニュ=ピエの乱」(”素足で歩くジャン”といわれた僧侶が指導したノルマンディの農民反乱)を鎮圧した。1635年からはハプスブルク家との対抗上、ドイツの三十年戦争に介入し、新教徒を支援して出兵した。一方で、リシュリューは文化政策も重視し、アカデミー・フランセーズを設立し、フランス語の統一をはかり、文芸・学術を保護した。画家では近世フランス絵画の祖といわれるニコラ=プーサンや、風景画のクロード=ロラン、肖像画のル=ナン兄弟などを保護した。
 彼は「フランスを服従させ、イタリアを恐怖させ、ドイツを戦々恐々たらしめ、スペインを苦悩させた」と言われた。ルイ13世との関係も良好であり、リシュリューが絶対王政を確立させたと言えるほどブルボン朝にとって重要な働きをした。1642年、三十年戦争の終結を見ることなく病死、その6ヶ月後にルイ13世も死んだ。わずか5歳のルイ14世が即位し、リシュリュー自身が指名したその後継者マザランが宰相となる。

対新教徒政策と三十年戦争介入

 フランスではカトリック信者が多かったが、アンリ4世のナントの王令で信仰を認められた新教徒も勢いを盛り返した。しかも彼らには政治的・軍事的にも自立しようという動きがあり、特にラ=ロシェルは新教徒の独立した共和国のような形勢をみせていた。リシュリューはこのような動きを、王権にとって有害と判断して、1627年にラ=ロシェルに総攻撃をかけた。1年にわたる攻防戦でこの新教都市は最後には口にすべき草木もなくなる飢餓によって、ようやく屈服させられた。以後、フランスの新教徒は軍事力を失い、政治団体から穏やかな宗教団体に転換した。新教徒は次のルイ14世の1685年、ナントの王令廃止によって宗教団体としても存在を否定され、オランダやスイスに亡命するか、カトリックに改宗するか迫られることになる。  リシュリューは国内の新教徒を弾圧する一方で、当時、三十年戦争に介入し、そこではイギリス・スェーデンなど新教国と共同して新教側のドイツ諸侯を支援した。これはスペインとオーストリアを抑えてフランスを挟み込む形のハプスブルク帝国の力を弱めるため戦略であり、同じカトリック国と戦うことに躊躇しなかった。このように、三十年戦争は、発端はドイツの新旧両派の対立から始まった宗教戦争であったが、国際的な戦争に転化してからは、宗教理念を離れて国際政治力学で敵味方がわかれていくという近代戦争(クラウゼヴィッツがいう「政治の延長としての戦争」)になったと言える。
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ノートの参照
8章4節 オ.フランスの宗教内乱と絶対王政