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ルイ13世

17世紀前半の絶対王政期フランス・ブルボン朝の王。宰相リシュリューが活躍。

 フランスブルボン朝の国王(在位1610~1643年)。1610年、父アンリ4世が暗殺されたため、9歳で即位。母のマリー=ド=メディシスが摂政となった。14歳で、スペイン・ハプスブルク家の王女アンヌ=ドートリシュと結婚。はじめは、摂政のマリーとその一派(イタリア人コンチーニら)が実権を握ったが、大貴族たちは国王が幼少で摂政が女性であることをよいことに、さまざまな特権を国王に認めさせようと、1614年に三部会を開催した。しかし三つの身分の利害の対立が明らかになり得ることなく終わった。これ以後、フランス革命の年、1789年まで三部会は開催されなかった。この三部会に聖職者の代表として参加していたリシュリューは、やがてルイ13世と摂政マリー=ド=メディシスの対立を調停することで頭角を現し、1624年からは、宰相として深い信任をうけ実権を握った。ルイ13世の時代はリシュリューの功績が大きいが、国王の絶対王政を支えるという形をとったことが重要である。リシュリューが1642年12月に亡くなると、ルイ13世もあとを追うように43年5月に死去した。

ルイ13世の内政

決闘禁止令 王権の強化に対して既得権を守ろうとする貴族に対して、ルイ13世は果敢な抑圧策を採った。その一つは1626年に出した決闘禁止令である。決闘は騎士道の伝統として貴族間にしばしば行われていた。徐のような私闘を禁止する法令はアンリ4世も出していたが、守られずにいた。27年にはそれまで20回以上も決闘をくりかえしていたという貴族が、国王広場で決闘しようとしてとらえられ、禁止令違反で死刑となった。リシュリューも含めて貴族の原型を要望する声が多かったが、ルイ13世は断乎として処刑し、王令違反に対する厳しい処分をみせつけた。
新教徒弾圧 新教徒はナントの王令以後も、完全な信仰の自由を要求して、特にラ=ロシェルは新教徒の独立した共和国のような形勢をみせていた。ルイ13世とリシュリューは王権による統一を脅かす存在としてラ=ロシェルを攻撃し、屈服させた。これ以後はフランスの新教徒の勢力は弱体化していく。
アカデミー=フランセーズの設立 1635年、パリの文化人サークルを公認し、公立の機関としてアカデミー=フランセーズを設立した。これもリシュリューの主導で行われたもので、当初の目的はフランス語を国語として統一、洗練することにあった。

Episode 母子戦争のはて

 ルイ13世は成長するに従い、国王として親政を行うことを望むようになり、母后マリー=ド=メディシスを嫌うようになった。1617年にコンチーニらイタリア人の一派をクーデターで退け、さらに摂政の母后マリーをブロワ城に閉じこめてしまった。しかしマリーは権勢欲が強く、城を脱走してしまう。その後もさまざまな画策を行い、一時は国王派と母后派の両軍が対決することさえあった。その両派の調停役として台頭したのがリシュリューであった。ルイと母親を対立を決定的にしたのが三十年戦争参戦問題だった。マリーはハプスブルク家やスペイン、ローマ教皇と手を結ぶことを主張し、新教徒を助けるのに反対した。その問題でマリーと対立したリシュリューも一時は参戦をあきらめたが、ルイ13世の決断はリシュリューに軍配を上げた。そして母親は捕らえられ、コンピエーニュ城に再び幽閉された。彼女は今度も城を脱出することに成功したが、もはやフランスには戻ることなく、ネーデルラントやイギリス、ドイツを転々とした後、1642年、ケルンで寂しくなくなった。<長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』2002 講談社選書メチエ p.76.87-88>

三十年戦争への参戦

 ドイツで始まった三十年戦争(1816年から)に対しては、フランスは当初、旧教の神聖ローマ帝国皇帝軍を支援していた。しかし、戦争が長期化する打ちにリシュリューはヨーロッパの勢力関係でハプスブルク帝国の優位に立つチャンスと考え、1630年に新教徒側を支援することを決定、スェーデン国王グスタフ=アドルフに軍資金を提供した。しかし32年、グスタフ=アドルフがリッツェンの戦いで戦死したため、フランスは直接派兵をせまられることになった。
 1635年、フランスはオランダ・スェーデンと同盟を結び、スペインおよびオーストリア(神聖ローマ皇帝)と戦うこととなった。ルイ13世とリシュリューは自ら軍を率いて戦場に赴き、一時はハプスブルク軍にパリの近郊まで迫られた子もあったが、はんげきして戦いを優位に進めた。リシュリューおよびルイ13世の存命中は戦争は終わらなかったが、死後の1648年のウェストファリア条約、およびスペインとのピレネー条約でフランスは領土拡張に成功する。

Episode 仮面夫婦に子供が生まれる

 三十年戦争参戦はルイの王妃アンヌ=ドーリッシュにとっては耐え難いことであった。それは彼女がスペイン王の妹であったからである。もっともこの夫婦はルイがどうやら女性に興味がなかったらしく、仮面夫婦だったという。ある時は王妃の私信の中にスペイン王に向けてフランスの秘密情報を知らせたものもあり、王妃は危機になったが、涙を流してその時は許された。このように二人の間には愛情はなかったのに、何故か子供ができ、世間の人は不思議がった。何度か子供を流産した後は、二人が夜を過ごしたのは一回だけだったと言うが、そこで生まれたのがルイ、後のルイ14世になる人である。もっともアンヌはルイ14世が即位すると、やはりまだ若いことから姑のマリー=ド=メディシスと同じように摂政となり、息子の嫁に同じくスペイン王室からマリア=テレサを迎えることに成功する。<長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』2002 講談社選書メチエ p.78.95-97>
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8章4節 オ.フランスの宗教内乱と絶対王政
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長谷川輝夫
『聖なる王権ブルボン家』
2002 講談社選書メチエ