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ジロンド派/ジロンド派内閣/対オーストリア開戦

ジャコバン=クラブの中の穏健な共和政を主張した党派。立法議会で一時権力を握り、対外戦争を主導した。また富裕な資本家層の支持を基盤とし、国王とも妥協的であったので、中下層の市民を基盤とする急進的なジャコバン派とは鋭く対立した。

 フランス革命の過程で形成された幅広い政治集団であったジャコバン=クラブの中で、ブルジョワの立場から穏健な共和政を主張した党派で、立憲君主政を主張するフイヤン派、急進的な共和政を主張する山岳(モンターニュ)派のいずれに対しても反対し、中間派を形成する。その基盤はボルドーなどの富裕な資本家層で、共和政を主張したが国王処刑には反対し、革命を終結させようとした。 → フランス

ジロンド派のメンバー

 1791年10月、立法議会の議員にジロンド県ボルドーから選出されたヴェルニョ、ジャンソネ、ガデ、デュコの四人がジャコバン=クラブに入会、ブリッソに近づいた。1792年1月なかば、パレ・ヴァンドームのヴェルニョの下宿でブリッソのサロンが開かれ、開戦論を展開。参加したのはブリッソを中心に、ヴェルニョなどのジロンド出身者グループ、コンドルセ一派(その妻が中心)、ロラン(ロランの妻)一派などであった。この党派はその指導者の名からブリッソ派とも言われたが、ジロンド県出身者が多かったことからジロンド派のほうが通称となった。
 いずれも「哲学者たち」の精神を受け継ぎ、政治的民主主義と経済上の自由競争を主張するブルジョワたち、マルセイユ、ナント、ボルドーなどの船舶所有者、貿易商、銀行家など戦争によって利益を得る人々の支持を受けていた。
(引用)(パリ選出の文筆家ブリッソ、ジロンド県選出の弁護士ヴェルニョ)この二人を指導者にもつジロンド派は、革命の第二世代を代表するもので、民主主義的傾向と同時に資本家的傾向をあわせもち、ルソーよりもむしろヴォルテールや百科全書派の志向をひきついだ。<河野健二『フランス革命小史』1959 岩波新書 p.112>

ジロンド派内閣

 ジロンド派は、立法議会でフイヤン派を追い落とすことを目論んだ。そのためにブリッソは盛んに開戦論を主張し、コブレンツに集結している亡命貴族がオーストリア軍をパリに進撃させて革命をつぶそうとしている、と盛んに訴えて開戦を議会と国王に迫った。国王は1792年3月、ジロンド派のロランを内相、クラヴィエを蔵相、デュムーリェを外相に据えてジロンド派内閣が成立した。
 1792年4月20日、国王は議会でオーストリアに対する宣戦布告を提案、議会は満場一致で可決し、対外戦争が開始された。しかしフランス軍は旧体制下の国王軍を主体にしていたため、戦闘意欲に欠け、各地で敗戦、同時にフランス国内でもアッシニア紙幣の暴落や反革命の暴動が起こり、革命は大きな危機に陥った。ジロンド派は全国から2万の連盟兵を招集しようとしたが、国王はそれを阻止するために、6月、ジロンド派の閣僚を罷免し、フイヤン派内閣が成立、ジロンド派内閣は約4ヶ月で終わった。

オーストリアに宣戦/フランス革命戦争

1792年4月、オーストリア・プロイセン軍のフランス革命干渉に対して、ジロンド派内閣が宣戦布告して戦争に突入した。

   1791年8月、オーストリアのレオポルト2世がピルニッツ宣言を発してから、革命干渉の脅威が迫る中、1792年3月25日にフランス政府が出した「エミグレ(亡命貴族)を送還せよ」という最後通牒にオーストリア(3月1日にレオポルド2世が死去、その息子がフランツだがまだ正式な即位をしていない)が応えないため、1792年4月、議会が満場一致で宣戦布告を決議した。
 立法議会で主導権を握ったジロンド派(穏健共和派)は、対外的な革命防衛戦争に打って出ることによって王政派や立憲王政派、さらには急進共和派を抑えることを目論んでいた。まだ形式的に国王であったルイ16世も宣戦布告を承認した。ルイ及びマリ=アントワネットは戦争になればオーストリアが勝つだろうと期待したのである。フランスは戦争の相手を「ボヘミア及びハンガリー王」としてプロイセンの中立を期待したが、プロイセンは同盟条約によってオーストリアを支援したので、フランスはこの二国を相手に戦うことになった。この戦争には、フイヤン派のバルナーブ、ジャコバン派のロベスピエールなどが強く反対を表明した。

革命防衛戦争の展開と国内情勢

 オーストリア・プロイセン連合軍と戦うことになったフランス軍は、指揮官には貴族出身者が多く、兵士も戦意に乏しかったため各地で敗戦を続けた。その戦局不利に対して、ジロンド派政府、国王は打つ手がない。このままではオーストリア・プロイセン軍が国境をこえ、パリは占領されるという革命の危機となった。そのためジロンド派内閣は退陣し、フイヤン派が政権に復帰した。
 1792年7月11日に立法議会は「祖国は危機にあり」という非常事態宣言を行い、各地の連盟兵(義勇兵)は続々とパリに向かい、その時マルセイユからやってきた連盟兵たちが歌っていたラ=マルセイエーズは後にフランス国歌とされる。またパリではこのころからサンキュロットといわれる革命派の下層市民が革命の前進と祖国の防衛を掲げて運動を開始した。
 7月、プロイセン・オーストリアの連合軍はブラウンシュヴァイク宣言を発し、国王に危害を加えればパリを破壊すると警告したが、その宣言は国王と王妃マリ-=アントワネットの密かな要請を受けたものであった。革命派のパリ市民は宣言の脅迫的な内容に激高し、1792年8月10日8月10日事件が起き、パリ市民がテュイルリ宮殿の国王一家を捕らえ、立法議会は王権の停止と新憲法制定のための国民公会の開設を決議した。臨時の行政府としてジロンド派中心とした内閣に山岳派のダントンが司法大臣として加わった。
 8月11日にはブラウンシュヴァイク指揮のプロイセン軍が国境を越えてフランス侵入、9月始めにはパリからわずか190km西方のヴェルダンを陥落させた。ジロンド派はパリを放棄することを主張したが、ダントンやマラー、ロベスピエールらの山岳派は熱心に抗戦を呼びかけた。このときパリではパニックが拡がり、パリ市民が反革命派として収容されていた牢獄を襲撃し、囚人約1300名を虐殺するという事件が起こった(9月虐殺)。しかし、1792年8月10日9月20日に、ヴァルミーの戦いでフランス革命軍がオーストリア・プロイセン連合軍に勝利し、危機は回避された。その日は男子普通選挙で選ばれた新しい国民公会の開会日にあたっていた。
デュムーリェの裏切り  戦争はその後も一進一退を続けたが、1793年1月にルイ16世が処刑されたことを理由に、イギリス・オランダ・スペインもフランスとの断交に踏み切り、第1次対仏大同盟が結成され、再びフランスは危機に陥った。2月には戦争に備えて30万の募兵を布告、事実上は徴兵制が強行され、反発した農民は各地で反革命暴動を起こした。前線に派遣されていたジロンド派のデュムーリェは、オランダに侵入したが背後をオーストリア軍に突かれて敗北すると、オーストリア軍と取引してベルギーを明け渡し、フランスに帰還して武力クーデターで王権を再建しようとした。しかし部下の兵士から砲火を浴びせられてオーストリア軍に逃げ込むという事件が起こった(4月4日)。この裏切り行為でジロンド派の権力は失墜し、5月31日、サンキュロットが議会を包囲して、6月2日にジロンド派は追放されてしまう。<河野健二『フランス革命小史』1959 岩波新書 p.144>

 → フランス革命戦争 国民軍の形成

主戦論を主張したブリッソ

ブリッソ

Brissot 1754-93
Wikimedia Commons

 フランス革命が進行する中、オーストリアやプロイセンなどの君主政国家の革命干渉が次第に強くなった。彼らはフランスからの亡命貴族を支援して、ブルボン王家の王権を維持しようとし、ルイ16世やマリ=アントワネットも密かに彼らと連絡して反革命をめざしていた。1791年10月に始まる立法議会の中でこれらの外国勢力に対する開戦を最も強く主張したのがジャコバン=クラブブリッソだった。ブリッソの周辺にはジロンド県出身の議員や共和政をめざす人々が集まり、ジロンド派と言われるようになり、ブリッソはその指導的立場に立った。
 ブリッソはパリ近郊の飲食店に生まれ、若くしてルソーの影響を強く受け、文筆家として活動、アメリカやイギリスにも渡り、アダム=スミスの影響を受け、新しい社会と政治に開眼した。84年にはその著作が罪に問われてバスティーユ牢獄に投獄されている。黒人奴隷制に反対して「黒人友の会」を設立、一方で自由な経済活動による資本主義の発展をめざすブルジョワの利益を代表する論客となっていった。そのブリッソが何故強硬に開戦を主張したか。その建て前は「革命の十字軍」によってヨーロッパに自由をひろげることにあったが、ねらいはフイヤン派に対するジロンド派の優位を勝ち取ることだった。
 ブリッソらは熱狂的な開戦論を沸騰させることに成功し、1892年3月にはジロンド派内閣が成立(国王の任命による)したが、思惑は外れ、フランス軍は各地で敗北し、6月にはフイヤン派に政権が変わった。野党となったジロンド派のブリッソは立法議会ではげしくフイヤン派を批判、7月11日には「祖国は危機にあり」という宣言を可決し、フイヤン派内閣を辞職に追い込んだ。ブリッソは今度は密かに国王と連絡を取り、王権停止を主張する急進的共和派(ロベスピエールら、後の山岳派)を批判した。そのころ、パリではサンキュロットと言われる下層市民の活動が活発となり、またロベスピエールの「連盟兵への訴え」に呼応して全国から義勇兵が集まってきていた。ブリッソはこのような革命的な民衆が権力を握ることで、ブルジョワの利益が損なわれることを恐れたのであった。ブルジョワにとっては戦争は利益につながるが、革命はもうからない。
国王処刑に反対 1792年9月、国民公会が始まるとブリッソに率いられたジロンド派とロベスピエールらの山岳派が激しく対立した。最も意見が対立したのが国王処刑問題であった。国王処刑を正しいと主張するロベスピエールやサン=ジュストに対して、ブリッソらジロンド派は反対した。僅差でルイ16世処刑が決まって1793年1月21日に実行されると、イギリスはフランス向けの商品輸出を禁止、それに対してブリッソはイギリス・オランダへの宣戦布告を提案し、可決された。こうしてフランスは全ヨーロッパとの戦争を構えることとなり、対仏大同盟(第1回)が結成された。そのような危機の中で4月に戦争の前線でジロンド派の将軍デュムーリェの裏切り(上掲)事件が突発して、ジロンド派は急激に権力を失い、6月2日、国民公会から追放される。ブリッソは逮捕を逃れて逃走したが、捕らえられてパリに連れ戻され、ギロチンにかけられた。

ジロンド派の追放

国民公会から追放される

 1792年9月に始まった国民公会で、当初多数を占めたジロンド派は政権を握り、オーストリア・プロイセンの干渉軍との戦争を主導し、さらに1793年2月にはイギリス・オランダに宣戦布告、3月にはライン左岸を併合するなど対外強硬路線を推し進めながら、国内では革命の幕引きによる社会の安定化を図った。しかし、革命を推進させようとする山岳(モンターニュ)派との対立が激化していった。
 1792年12月から始まった国王裁判では、ジロンド派は外国との交渉の手札とするため処刑を回避しようとしたが、山岳派が主張する死刑が僅差ながら可決され、1793年1月21日ルイ16世処刑が執行された。このためイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国が硬化し、対仏大同盟が結成され、ジロンド派の対外強硬路線は困難になった。また国内で起こった反革命暴動であるヴァンデーの反乱に対する処置でも手を焼き、ジロンド派政権は次第に追いつめられていった。起死回生を狙ったジロンド派は4月、山岳派の中心人物マラーを9月虐殺事件の責任などで革命裁判所に告発した。しかし、パリのサンキュロットはマラーを支持して、かえってジロンド派打倒の民衆運動を誘発してしまった。こうしてジロンド派に対する議会内外の攻撃が1793年5月31日から始まり、ついに6月2日、国民公会は8万の武装したサンキュロットに包囲され、ジロンド派議員を人民裁判にかけることを要求、指揮官アンリオの「砲手、位置につけ!」の声に屈服し、ジロンド派議員を追放することを決議した。こうしてジロンド派は敗北し、その排除に成功した山岳派は、ジャコバン=クラブで唯一の党派となったので、このころからジャコバン派と言われるようになった。

Episode ジロンド派の末路

 国民公会を追放されたジロンド派はパリで潜伏するか地方に逃れた。ノルマンディのカーンに逃れたジロンド派が、マラーを非難した演説を聴いたのがシャルロット=コルデで、彼女はマラーを激しく憎み、パリに行って入浴中のマラーを暗殺した。その報復もあったのか、ジロンド派の面々は次々と捕らえられ、ジャコバン派独裁のもとで革命裁判所で裁判にかけられ、次々と有罪判決が出され、ブリッソやマノン=ロランなどみな処刑されてしまった。
(引用)ジロンド派は一貫性を欠いたがゆえに滅んだ。つまり、戦争の仕方も知らずに戦争を望んだこと、あらゆる手段でルイ16世と闘い、そのあげく彼を救うのをためらったこと、自由主義を固持して、経済危機を悪化させ、それを改善する手段を受け入れなかったこと、そして最後に、長いあいだアクセルの役を演じてきたが、革命の推進力にブレーキをかけようとして遅きに失したことが、彼らの敗因であった。<F.ブリッシュ他/国府田武訳『フランス革命史』1992 文庫クセジュ 白水社 p.106>

最後の百科全書派 コンドルセ

 百科全書派の思想家であり、数学者でもあったコンドルセは、科学アカデミーの書記として活躍していたが、フランス革命が始まると、シェイエスらとともに1789年協会を設立して、立法議会の議員に選出されて、特に公教育については実施には至らなかったが政治権力から自立した義務教育機関の設立を盛り込んだ「教育計画」を提案した。次いで国民公会議員にも選出され、ジロンド派の共和主義の理論家として活躍した。国民公会では新たな憲法草案の作成にあたり、当時フランスに来ていたアメリカ独立革命の指導者トマス=ペインの協力を得て、長大な憲法原案を作成した。それは王政を完全に否定し、厳格な分権制を盛り込んで、行政権を持つ《執行府》の大臣は立法府から独立して国民が直接選ぶ(しかも毎年半数改選)とした。ジャコバン派はそれを「大臣による王政」として反対した。コンドルセは前国王の処刑に反対し、ジロンド派追放後に制定された1793年憲法(ジャコバン憲法)に反対したため逮捕状が出された。逮捕を逃れて逃亡生活を送ったが、1794年、ついに逮捕され、獄中で自殺した。コンドルセは「最後の百科全書派」と言われ、逃亡中に書いたその著書『人間精神の進歩の歴史』は「18世紀の遺書」といわれている。

マノン=ロラン

「ジロンド派の女王」と言われる

ロラン夫人

Manon Roland 1754-93
Wikimedia Commons

 立法議会で華々しく開戦を主張したブリッソやヴェルニョがジロンド派の首領と見られがちであるが、本当の首領、実力者はマノン=ロラン(一般にロラン夫人と言われる。1754-93)であった。マノンはパリの彫板師の娘として、典型的なブルジョワの家庭に育った。子供のころからモンテスキューやヴォルテール、ルソーやプルタルコスの英雄伝を読んで共和主義思想に親しみ、さらに娘時代になると哲学、歴史、化学、絵画、音楽、ダンスにおよぶ教養を身につけ、一代の才媛と言われた。ジロンド派の一人のロランと結婚後、ブリッソの著作から革命思想に目を開かれ、サロンを開き、ジロンド派のメンバーが集まるようになった。夫のロランが内務大臣になると、夫人は凡庸な夫に代わって事実上のジロンド派の実権を握り、閣僚となったメンバーを背後から操る実力者となった。1793年6月の政変でジャコバン派によって権力の座を追われたロランは、他のジロンド派のメンバーと同じように処刑される。刑場に送られるとき、ロランは「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪がなされたことか」という名台詞を吐いたという。 → 女性解放運動の歴史
(引用)このロラン夫人だが、どの肖像画を眺めても、触れ込みから期待してしまうような、絶世の美女ではない。年齢も若いとはいえないし、フランスでは女性に年齢はないのだと叱られてみたところで、ずんぐりと小太りの容貌は、やはり家庭生活で油断してしまった、普通の主婦としか思われない。とはいえ、いくつか証言あるところ、実際のロラン夫人は実年齢より若くみえたようだ。なんといっても話し方が魅力的で、太陽のような明るさで周囲を魅了し、その目を眩ませてしまうタイプだったのだろう。<佐藤賢一『フランス革命の肖像』2010 集英社新書 p.100>

Episode 華やかなサロンから悲惨なギロチンへ

 ロランについては、あの『ヴェルサイユのバラ』の作者として有名な池田理代子さんが、『フランス革命の女たち』で触れている。それによるとロランは自分の手になる『回想録』を残しており、革命の事実関係と人間関係を知ることができるという。ロラン、すなわちマノン・フリポンは1754年、パリのオルロージュ河岸で彫金師の娘として生まれ、早熟な文才を発揮し、1780年20歳年長の哲学者で工業監督官のロラン・ド・ラ・プラティエールと結婚、堅物の夫のもとで退屈をがまんしながら勉強を重ねた。革命が起こり夫がリヨン代表の憲法制定国民議会に派遣されたことでパリに移り住み、世に出る機会をつかんだ。夫とおなじ議会の議員を自邸に招きサロンの女主人公として振る舞うようになった。そこに参加したのがブリッソ、ビュゾーなど、後にジロンド派の中心となっていく人々だった。1792年、国民公会が発足してジロンド派が政権を握ると、夫のロラン氏は内務大臣に任命され、大理石造りの大臣邸にうつったことで、マノンは「ジロンド派の女王」と言われるようになった。実際、マノンはおとなしくてやるきのない夫に代わって演説の原稿を書き、政務を判断した。そんな中、彼女は次第にジロンド派のやり手のビュゾーに惹かれていったようだ。
 しかし、ジロンド派の天下は長く続かなかった。革命の荒波はジャコバン派に有利に展開していくことを賢いマノンは見抜いていたとおり、1793年5月、ジロンド派は敗れ国会から追放される。ブリッソらは捕らえられたが、ロランとビュゾーはパリから逃げ出すことに成功した。しかしマノンはまもなくコミューンの革命委員会によって逮捕され、アベイ監獄に送られてしまった。牢獄に入ったマノンははじめて夫と解放され、ビュゾーへの愛を隠す必要が無くなり、「私はこのように鉄の鎖でつながれたことを心から喜んでいます。なぜなら、こうした状態でこそ、自由にあなたを愛することができるのですから」と手紙を書き送った。1793年11月8日、死刑が執行されるためコンシェルジュリ監獄から革命広場に向かう途中、テュイルリー宮の庭園入口に建てられた大きな自由の女神像の前を通過したとき、「おお、自由よ。汝の名の下にいかに多くの罪が犯されたことか」といいう有名な言葉を残したのだった。夫ロラン氏は逃亡先で妻の処刑を知り、もはや生きることに絶望して自殺、断頭台を逃れてうまく地方に逃げのびたビュゾーも、結局は逃げ切れず自殺した。<池田理代子『フランス革命の女たち』(新版)2021 新潮社 p.118-129>
蛇足 「夫人」をつけません この稿でも今まで「ロラン夫人」としていましたが、そのような符牒を付けることは、女性差別につながるとの指摘があるので、引用部分を除いて、やめます。最近の教科書、用語集などでも、例えば「ストウ夫人」とか「キュリー夫人」などといった呼称は見られなくなりました。ただ慣用句や文学作品名となっている場合は許していただきたいと思います。そこでロラン夫人、いやマノン=ロランですが、彼女は気の弱い夫を裏から操っただけでなく、ブリッソなどジロンド派をまとめあげ、ロベスピエールなど急進的ジャコバン派とわたりあい、ついにはギロチンにかけられた女性です。彼女を「女傑」とか「男勝り」とかいうのも今はNGですね。どうしても興味本位に見られがちですが、フランス革命史の中でも重要な存在の人物であることはまちがいありません。手近に知るには池田理代子の本がありますが、詳しくはいささか古いですがガリーナ・セレブリャコワの『フランス革命期の女たち』(上)岩波新書がかなりのページを割いて的確に紹介しており、池田さんのネタ本になっているようです。<ガリーナ・セレブリャコワ/西本昭治訳『フランス革命期の女たち』(上)1973 岩波新書 p.59-133>
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書籍案内

河野健二
『フランス革命小史』
1959 岩波新書
桑原武夫編
『フランス革命の指導者』
1978年 朝日選書

佐藤賢一
『フランス革命の肖像』
2010 集英社新書

池田理代子
『フランス革命の女たち』(新版)激動の時代を生きた11人の物語
2021 新潮社

ガリーナ・セレブリャコワ
/西本昭治訳
『フランス革命期の女たち』(上)
1973 岩波新書