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ホイットニー

アメリカの発明家で18世紀末、綿繰り機を考案した。南部のプランテーションでの黒人奴隷労働による綿花生産が急増した。

ホイットニー

Eli Whitney 1765-1825

アメリカ合衆国、ニューイングランドの名門イエール大学を出たばかりのイーライ・ホイットニーが陸軍の故ナサニエル・グリーン将軍夫人の後援の下で、1793年、ジョージアのプランテーションで綿花の種子と繊維を分離する綿繰り機を発明した。 ホイットニーは翌年3月14日、綿繰り機の特許を取得した。それによってアメリカ南部の綿花プランテーションでの栽培が盛んになり、当時イギリスで綿工業をベースに産業革命が起こっていたことから、南部はそのための原綿の主たる供給地となった。

ホイットニーの自動綿繰り機発明

 マサチューセッツで1765年に生まれたホイットニーは、貧しい家庭に育ち、独立戦争の間は手製のクギを売って生計を立てていた。彼は非常に優秀な技師であり、独力でイェール大学を卒業できる資金を稼ぐほどであった。1792年の卒業に際して、ある家庭の個人教師をするためにジョージア州サバナに行った。サバナに着くやいなや、彼は約束の仕事がすでに埋まっていることを知り途方に暮れてしまった。仕事を求めてさまよっているうちに、サバナ近郊で綿花プランテーションを経営している、地元では有名な未亡人の招きに応じ、住み込みで彼が持つ機械いじりの才能を発揮させてもらうことにした。
 プランテーションで夕食会が開かれたとき、どのプランターも綿繊維から種子を取り除くのに苦労しており、その作業を機械化できないかということが話題になった。そこでこの機械に詳しい若者にやらせてみようと言うことになった。若者は鍛冶場で昼夜を分かたず機械の研究に没頭し、ついに1793年に「自動綿繰り機」を発明し披露した。この機械を使えば人間の手作業よりも50倍の速さで、綿ざやから種子を取り除くことができた。この発明こそが奴隷、人口動態、ひいては北部と南部の関係にまで広範囲にわたって影響を及ぼすことになる。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.97-98>

南部プランテーションの綿花生産

 南部の綿花の生産高は1790年に約710トンであったが、1800年までに一挙に約1万6千トンと20倍以上になり、1810年には4万トンに達した。その結果、共和政の樹立という政治的な目標とは裏腹に、アメリカの黒人奴隷制はむしろ強化された。奴隷の数は1790年に70万弱だったのが、1800年に89万人に増え、1810年には119万人に達した。<五十嵐武士『世界の歴史』21(中公)p.192> → 三角貿易
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