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綿花

アメリカ新大陸やインドからイギリス綿工業の原料としてもたらされた農産物。

 綿花は綿織物の原料。綿花を栽培し綿織物をつくる技術はインダス文明がその起源であり、長くインドの特産品であった。インド産綿布は16世紀以来ヨーロッパに輸出され、その積み出し港の地名であるカリカットからキャラコ(キャリコ)といわれるようになった。17世紀には綿布はイギリス東インド会社の主要な輸入品となり、イギリスでの需要がたかまったので、イギリスは逆に綿織物生産に乗り出すようになり、それがイギリス産業革命の原動力となった。イギリスの綿工業が成立すると原料の綿花を逆にインドから輸入するようになり、さらに西インド諸島やアメリカ大陸で綿花を栽培するようになった。 → 中国の綿織物

アメリカ南部の綿花プランテーション

 イギリスの綿織物生産が爆発的に増加するなかで、18世紀末にアメリカのホイットニーが綿操り機を発明すると、アメリカ南部の綿花プランテーションでの黒人奴隷による綿花の生産が増大し、三角貿易の一角を占めてイギリスへの輸出品となった。しかし、北部の工業が発達するにつれて、黒人奴隷制に対する批判が強まり、また北部の産業資本家が保護貿易を主張したのに対して、藩部の綿花農場主は綿花輸出の必要から自由貿易を主張するという対立が生じ、1861年に南北戦争が勃発した。戦争のためにアメリカ産綿花の生産が減少、さらに北部の勝利によって黒人奴隷制が禁止されたため、南部の綿花プランテーションは衰退に向かった。

インドの綿花栽培

19世紀中ごろ、インドはイギリス向け綿花の単一栽培地域となり、イギリスの植民地支配を受けた。

インドでは農家の家内工業としての綿織物の原料として綿花が栽培され、インド産綿布は18世紀前半まではイギリスに輸出されていた。ところがイギリス産業革命のインドへの影響によって、インドはイギリス製綿布の輸入地域に転換し、そのためインドの家内工業としての綿織物業は衰退し、農民は綿花栽培に特化していった。とくに1861年、アメリカ南北戦争による世界的綿花不足によってインドの綿花生産は異常に増大し、1863年にはアヘンを抜いてインドの最大の輸出品となった。同時にイギリスはインド大反乱を鎮圧し、1877年にはインド帝国として直接統治し、綿花は、藍、茶、アヘンなどのとともに主要な商品作物として栽培され続ける。
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ノートの参照
9章2節 ウ.奴隷貿易と近代分業システムの形成