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(1)黒人奴隷 大西洋奴隷貿易の開始

15世紀にスペイン、ポルトガルでアフリカの黒人を奴隷として使役する行為が始まった。新大陸を植民地にすると、労働力が不足し、大西洋奴隷貿易が開始され、主としてアフリカ西岸から多くの黒人奴隷が、中南米・西インド諸島に送られ、三角貿易の一辺をなすこととなった。

 → (2)イスラーム世界での黒人奴隷貿易  (3)大西洋の黒人奴隷貿易  (4)アメリカの黒人奴隷制度  (5)アメリカの奴隷解放

ポルトガルの黒人奴隷貿易

 サハラ以南のアフリカ黒人を奴隷として拉致し商品化する行為を、組織的・国家的にはじめたのは15世紀のポルトガルであった。1441年にはエンリケ航海王子の派遣した艦隊はモロッコ南部のリオ・デ・オロで上陸、初めてアフリカ人を捉え、奴隷として本国に連れ帰った。こうしてポルトガル人による黒人奴隷貿易が開始され、1448年には西アフリカ海岸における最初のヨーロッパ人の居留地としてアルギム要塞が建設された。それ以後、ポルトガル人はギニア地方で黒人を捉え、本国に連れ帰ってヨーロッパ各地に金や象牙、胡椒とともに奴隷として供給した。ジョアン2世の時、アフリカ西岸に進出したポルトガルは金と黒人奴隷などを獲得して大きな利益を上げるとスペインとの競合を予測して、1455年にローマ教皇から新たに「発見」し、これから「発見」する非キリスト教世界を征服し、交易を独占する権利を認められた。これはローマ教皇が黒人奴隷を承認したことであり、大きな転機であった。1482年にはジョアン2世はギニア地方(現在のガーナなど)の奴隷貿易拠点としてエルミナ要塞を築いた。またギニア湾に浮かぶサン=トメ島(現在のサントメ=プリンシペ)はポルトガルの奴隷貿易の海上拠点として利用された。ポルトガルはコンゴ川流域のコンゴ王国との間でも奴隷貿易をおこない、ルアンダ(現在のアンゴラの首都)からブラジルに向けて多数の黒人が奴隷として送られた。 → ポルトガルのアフリカ植民地支配

負の世界遺産 エルミナ要塞

 現在のガーナ、かつて黄金海岸といわれた海岸に、ポルトガルが黒人奴隷貿易の最初の拠点として設けたエルミナ要塞の建物が残されている。これは奴隷貿易という人類の負の遺産として、他の城塞群と共に世界遺産に登録されている。

新大陸への黒人奴隷貿易

 16世紀の初め、西インド諸島、中南米のスペイン人入植地による農園や鉱山のエンコミエンダ制による経営で、インディオが酷使されたために人口が減少し、その労働力不足を補うために、アフリカの黒人を奴隷として使役した。1501年の宣教師ラス=カサスの提言に始まったが彼自身は後にその件を反省している。

スペインのアシエント制度

 アメリカ大陸・西インド諸島への奴隷貿易はスペインの特許事業となり、1517年から新大陸のスペイン領に黒人奴隷を供給を請け負わす契約(それをアシエントという)を特定の商人や外国政府と結ぶようになった。西インドでの労働力不足によって黒人奴隷の需要が多くなり、また帰りの船で砂糖を運んでくると利益が大きいことから、このアシエントを得て三角貿易に進出しようという各国の競争が激しくなった。初めはポルトガルがアシエントを認められていたが、1530年頃から、アフリカ西岸のギニア湾には、フランス、次いでイギリスが相次いで進出するようになり、ポルトガルの独占は次第に揺らいでいった。特に1550年代以降はイギリスの冒険的商人(海賊とも言える)が新大陸との三角貿易に乗りだし、利益を上げるようになった。。
 17世紀にはいるとスペインからの実質的独立を果たしたオランダが台頭した。オランダは1621年にオランダ西インド会社を設立して、西インド諸島だけでなくポルトガル領ブラジルとの間でも大西洋黒人奴隷貿易を展開し、大きな利益を上げるようになった。ところが1701年にはフランスの手に移りったが、スペイン継承戦争後の1713年のユトレヒト条約でアシエントはフランスからイギリスに譲渡され、イギリスが大西洋の黒人奴隷貿易(三角貿易)の利益を独占するようになる。

(2)黒人奴隷 イスラーム世界での黒人奴隷貿易

ムスリム商人によるインド洋交易圏での黒人を奴隷として売買した貿易。このインド洋交易における黒人奴隷貿易は、17~19世紀にオマーンによって行われ、ザンジバルがその中心として栄えた。

 紀元前後から盛んになった季節風を利用するインド洋交易圏で、アフリカの黒人を奴隷として売買することが行われていた。特に8世紀後半にアッバース朝が成立して、バグダードが建設され、バスラなどペルシア湾に面した都市が発展し、ムスリム商人がインド洋に進出するようになると、彼らはアフリカ東岸を南下し、象牙などと共に黒人を捕らえて奴隷としてイスラーム圏で売りさばくようになった。イスラーム法ではイスラーム教徒を奴隷とすることは否定されていたので、アフリカのナイル上流地域のアビシニア(エチオピア)のキリスト教徒(キリスト単性説を信奉するコプト教会系)や、現在のタンザニア、モザンビークなどの内陸部の非イスラーム教徒を捕らえて奴隷とし、彼らはイスラーム圏で家内奴隷や農園奴隷として使役された。黒人奴隷はイスラーム圏ではザンジュと言われ、アッバース朝時代の869~883年に起こった奴隷反乱はザンジュの乱といわれている。またアフリカ東岸で奴隷貿易の中心地として栄えたザンジバル島の名もザンジュから来ている。

ザンジバルの奴隷貿易

 アラビア半島からアフリカ東海岸にかけてでは、16世紀後半からポルトガルの勢力が急速に後退し、ポルトガルに対抗していたオマーンが台頭した。17世紀末までにモンバサ、モザンビーク、ザンジバルなどに拠点を設けたオマーンは、盛んに黒人奴隷貿易を展開し、それは19世紀のオマーンの最盛期サイイド=サイードの時代までつづいた。
 その頃この地域に進出したイギリスは1833年に奴隷制度禁止をすでに決めていたので、オマーンとザンジバルに対しても1873年に奴隷棒売買を禁止する条約を締結、奴隷市場は閉鎖された。じかし実際に奴隷貿易が終わるのは20世紀に入ってからであった。<『新書アフリカ史』講談社現代新書 p.236>
注意 アフリカの黒人が、アメリカ大陸で奴隷とされる以前に(あるいは同時に)、イスラーム世界で広く「用いられていた」という事実は、日本ではあまり知られていない。このことをことさらにとりあげることによって、言外に、アフリカ人が奴隷とされるのは昔からあった、そういう劣等民族であったから、ヨーロッパやアメリカでもそうなったのは自然の成り行きであり、アメリカの発展にとってはやむを得なかったのだ、という認識があるとすれば、それは明らかに誤っている。近代以前の奴隷制度(異教徒や戦争捕虜を奴隷とする)と、近代アメリカの黒人奴隷制度(経済的需要からの組織的な制度)とは明らかに異なる。

(3)黒人奴隷 アメリカ・西インド諸島の黒人奴隷

17世紀に始まった北アメリカへの黒人奴隷貿易は、18~19世紀にイギリスが三角貿易を独占してその利益を上げ、植民地アメリカの発展を支える労働力となっていった。

アメリカの黒人奴隷の始まり

 北アメリカのイギリス植民地に最初につれてこられた黒人奴隷は、1619年8月、オランダの商人によって、ヴァージニア植民地のジェームズタウンに「輸入」され、タバコ・プランテーションの経営者(プランター)に売り渡された20人が最初であった。イギリス植民地でははじめは白人の年期奉公人(ロンドンの貧民などが強制的に連行されることもあった)を労働力としていたが、プランター(大農園経営者)はそれよりも一生涯使役できる黒人奴隷の方が採算が合うと考えたのだった。

1619年という年

 アメリカ大陸にもたらされた黒人奴隷の実質的な最初の年となった1619年は、最初の植民地議会であるヴァージニア議会が開催され、自治が始まった記念すべき年でもあった。また、この年はメイフラワー号ピルグリム・ファーザーズがプリマスに上陸する1年前にあたっている。
(引用)アメリカ最初の代議制議会の誕生という民主主義的なもののはじまりと、アメリカ最初の黒人奴隷の輸入、すなわち生身の人間を動産とする黒人奴隷制度という非民主主義的なもののはじまりとが、同じ時に、同じ場所で、同じ人間によってなされたことのアメリカ史の皮肉である。それは、たんに皮肉ということ以上に重要な歴史的意味を、その後のこの国の歴史において現実に持つことになるが、この二つの出来事は、偶然とよぶには、あまりにも偶然的でありすぎた感がある。<本田創造『アメリカ黒人の歴史』岩波新書 1964 p.31 新版1991 p.23>

イギリス、アシエントを獲得

 イギリス領の西インド諸島ジャマイカ島などでも、砂糖プランテーションの労働力として黒人奴隷が使役された。イギリスは1672年に奴隷貿易独占会社である王立アフリカ会社を設立し、フランスとの抗争で北米大陸の植民地を拡大しながら、1713年のユトレヒト条約で、アシエント(スペイン領への黒人奴隷供給契約)を獲得し、新大陸の黒人奴隷貿易を独占した。

イギリスの黒人奴隷

 イギリスの、本国とアフリカ東岸、北米・中南米・西インド諸島を結ぶ三角貿易の一環として行われた黒人奴隷貿易はアフリカと南北アメリカ大陸を結ぶ主要な品目となり、大々的に展開され、多数のアフリカ人が奴隷として新大陸に連行されていった。イギリス商人は西アフリカ内陸のベニン王国の王に鉄砲を大量に売りつけ、ベニン王はその鉄砲で奴隷狩りを行ってイギリス商人に売った。奴隷とされた黒人はギニア地方のいわゆる奴隷海岸(Slave Coast)の港から船に積み込まれ、中間航路でアメリカ大陸や西インド諸島に輸出された。黒人奴隷はタバコ、藍、米のプランテーションでも使役されていたが、特に18世紀からは南部に綿花プランテーションが発達し、そこでは欠くことのできない労働力となり、18世紀に黒人奴隷貿易は最盛期を迎えた。

三角貿易の利益

 イギリスは奴隷貿易を含む三角貿易の利益を蓄積して産業革命を達成した。また19世紀初めまで、イギリスの綿工業は奴隷貿易と結びついて発展した。イギリスがアフリカに持ち込んだのはマンチェスターなどのランカシャー地方の工場で作られ、リヴァプールから積み出された綿織物であり、アフリカで綿織物を荷下ろしして黒人奴隷を詰め込み、西インドにもたらしてそこで砂糖や煙草、綿花などを積み込んでリヴァプールに戻ってきた。この奴隷貿易によって蓄積された富は、さらに綿工業に投資され、産業革命はさらに進化した。また、アメリカ南部のプランテーションで黒人奴隷によって生産される綿花はイギリス綿工業の原料として盛んに生産され、1793年のホイットニーの綿繰り機の発明が増産に拍車をかけた。

黒人奴隷の数

 アフリカ大陸から「拉致」された黒人の数は「あまりにも膨大」であるが、エドワード・ダンバーの1861年の推定によれば、16世紀には88万7500人、17世紀には275万人、18世紀には700万人、19世紀には325万人、総計1400万近くもおよぶ。しかも、中間航路で死亡した黒人も入れれば、7000万人と推計される。(近年の統計学的研究ではかなり少なく見積もられ、16~19世紀までの総計で952万4600人という数字があり、かなりの開きが出ている。)<本田創造『アフリカ黒人の歴史』新版 岩波新書 1991 p.28>

奴隷貿易の禁止

 18世紀末のイギリス産業革命は、危険な黒人奴隷貿易よりは、安価な原料を輸入し、工業製品を輸出することであがる利益の方がうわまわるようになった。それはアフリカを黒人奴隷の供給地としてではなく、原料の供給地であり製品の市場である植民地として支配しようとする政策の転換をもたらした。並行して、人道的にも黒人奴隷を禁止すべきであるという運動が起こった。
 イギリスで奴隷貿易が禁止されるのは、1770年代からのウィルバーフォースらの運動によって、1807年に奴隷貿易禁止法が成立し、産業革命が進行すると共に自由主義が台頭した1833年に奴隷制度が廃止されたことによってであった。
 なおフランスではナポレオンはその最初の妃ジョゼフィーヌが西インド諸島のアンティル諸島マルティニクのサトウキビ大農場主の娘だったので、その要請を受けて奴隷制を復活させた。フランスがアンティル諸島なども含めて全面的に奴隷制を廃止したのは、1848年の二月革命による第二共和政の成立によってであった。
 またアメリカ合衆国では南部の綿花プランテーションでの黒人奴隷制度について、19世紀前半にその是非をめぐって激しい南北の対立が起こり、その結果勃発した南北戦争を経て、1863年に奴隷解放宣言が出された。奴隷制度そのものは1865年に憲法修正第13条が成立して廃止される。しかし、アメリカにおける黒人の貧困と差別の問題はその後も長く続いている。なお、世界で最後に奴隷制度を廃止したのは1888年のブラジルであった。

(4)アメリカの黒人奴隷制

黒人奴隷はアメリカ南部の綿花プランテーションでの労働力として使役され、北部から批判が起こり、南北戦争に発展した。

アメリカ独立宣言の矛盾

 1776年、アメリカ合衆国独立宣言は、その冒頭に、「すべての人は平等に造られ」ており、譲ることのできない「生命、自由、そして幸福の追求」を権利として与えられていると述べた。しかし、この「すべての人」の中には黒人奴隷(そしてインディアン)は含まれていなかった。それどころか、独立戦争の指導者ワシントンジェファソンら自身が自分の農園では黒人奴隷を使役していた。1787年に制定されたアメリカ合衆国憲法にも、黒人奴隷の解放は規定されておらず、権利は認められなかった。なお、彼らの憲法上の根拠は、アメリカ合衆国憲法の第1条第2節第3項で、黒人とインディアンは「その他全ての人々」という表現のもとに、下院議員の選出と直接税の改税基準において白人一人に対して5分の3人と数えられ(いわゆる5分の3条項)ており、また第1条9節1項には「入国を適当と認められる人々の移住および輸入」という言葉があり、黒人奴隷貿易が公認されている、というものであった。

奴隷貿易の禁止

 黒人を所有する大農園主であったワシントンやジェファソンも、早くから奴隷制は害悪であると考えていた。またキリスト教の人道的見地から黒人奴隷を解放すべきであるという声は独立前から特に北部では盛んだったので、奴隷貿易禁止については憲法制定後20年間の猶予するとされ、ジェファソン大統領の時、1808年に実現した。しかしこれは奴隷貿易の禁止であり、奴隷制そのものの廃止ではなく、アフリカから新たに奴隷を連れてくることはできなくなったが、今いる奴隷はそのままであり、売買も認められた。南部では依然として黒人奴隷の需要が大きかったので、スペイン船などによる黒人奴隷の密貿易が後を絶たなかった。

奴隷州と自由州

 独立後、北部諸州では奴隷制廃止が次々と実現し1819年には22州のうち北部11州が「自由州」となったが、南部11州は奴隷制度を認める奴隷州であった。人口の増加とアメリカ合衆国の拡大に伴い、新たな州(男性の人口6万で準州から州に昇格する)ができると自由州か奴隷州かいずれにするかが問題となった。1820年、ミズーリ州が奴隷州として合衆国に加盟したとき、北部のマサチューセッツ州からメイン州を分離して自由州を増やし、同時に北緯36度30分以北には新たな奴隷州を造らないというミズーリ協定といわれる妥協が成立した。

奴隷制反対運動

 植民地時代からクウェーカー教徒らによるキリスト教的な人道主義の見地からの奴隷制廃止運動があったが、運動は次第に漸進的、人道的なものより、急進的、政治的なものに転換し、1833年に北部の白人の奴隷制廃止論者が即時廃止を主張する「アメリカ奴隷制反対協会」が結成された。資本主義の発展にとって必要な国内の労働力して黒人奴隷の解放を期待する面もあった。1830年代からは黒人自身による解放運動も活発になる。南部の黒人の逃亡を助ける組織も作られた。

Episode 黒人奴隷の逃亡を助ける地下鉄道

 黒人奴隷の逃亡を助ける奴隷制廃止論者(アボリショニスト)は、「地下鉄道」(アンダーグラウンド・レイルロード)といわれる非合法組織を作った。その組織で「停車場」というのは逃亡奴隷が一夜の宿を取るところであり、「終着駅」は奴隷制度のない北部か、カナダであった。彼らの輸送には「車掌」がつき、勇敢な指揮官に導かれて北極星を頼りに北への長い旅を続けた。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新編』岩波新書 p.90 1991>

南部諸州の主張

 しかし、19世紀の中頃、イギリス向けの綿花生産が増大するに従い、南部の綿花プランテーションは経営者(プランター)は、黒人奴隷労働力が不可欠であったので、その存続を強く主張するようになった。こうして奴隷制問題は誕生間もないアメリカ合衆国にとっての深刻な対立軸となっていった。学者の中にはギリシアのアリストテレスも奴隷制を認めていたとか、南部の黒人奴隷の方が北部のいつ首を切られるかわからない賃金労働者よりも生活が安定しているなどと奴隷制を正当化する主張もあった。

Episode アミスタッド号事件

 アメリカが黒人奴隷制問題で国論が二分されていた1839年8月、コネティカットの海岸に一艘の船が漂着、41人の黒人がとらえられた。船はアミスタッド(スペイン語で友愛の意味)号というスペイン船であったが、この黒人の扱いを巡る裁判はアメリカで大きな注目を浴びることとなった。スペインの船主はこの黒人はキューバ生まれで正当な手続きで購入した財産だから返還してほしいと要求した。しかし真相は彼らはアフリカのシェラレオネから奴隷密貿易船で運ばれてきた人々だった。途中で反乱を起こし船を奪ったが、航路がわからず北米海岸に漂着したのだった。裁判の結果、スペイン側の主張は退けられ、シンケと呼ばれた青年をリーダーとした黒人たちはアフリカに送還されることになり、正義は守られた形となった。この事件を描いたのがスピルバーク監督の映画「アミスタッド」である。 → 19世紀の中間航路

1850年の妥協

 その後も南北の奴隷制を巡る議論は対立の度合いを深めていった。1848年のアメリカ=メキシコ戦争でメキシコから獲得した地域については「1850年の妥協」が成立し、カリフォルニアは自由州と認められたが、ユタとニューメキシコは住民投票で決めるという「住民主権」の考えが採用された。また首都のワシントンDCでは奴隷売買を禁止する代わりに、奴隷の自由州への逃亡を取り締まる逃亡奴隷法が制定された。ストウ夫人は逃亡奴隷法に反対し、1852年に『アンクル=トムの小屋』を発表し、大きな反響を呼んだ。

カンザス・ネブラスカ法

 住民投票で決するというやり方は1854年のカンザス・ネブラスカ法でも採用され、北緯北緯36度30分よりも北にあるカンザスとネブラスカが自由州か奴隷州かの選択は住民投票で決することとなり、ミズーリ協定は破棄された。これに対して北部の奴隷制拡大反対論者は強く反発し、同じ1854年に共和党を結成した。民主党も同法に反対するメンバーが脱退し分裂した。

南北戦争への道

 さらにひとりの黒人奴隷が解放を訴えた、1857年のドレッド=スコット判決では、最高裁判所の判断は、黒人奴隷は財産であり、財産は憲法修正第5条のいわゆる権利宣言で適正な手続き(デュー・プロセス)がなされないかぎり侵害されないのだから、連邦政府は奴隷解放を命令することはできない、というものであった。そのような強固な奴隷制擁護の壁に対して、白人の中でも実力で奴隷解放を主張する人々が現れ、その中のには1859年の「ジョン=ブラウンの蜂起」のような事件も起こった。

ジョン=ブラウンの蜂起

 白人の黒人奴隷制廃止論者ジョン=ブラウンは、1859年10月、ヴァージニア州の連邦武器庫ハーパーズフェリーを襲撃した。ブラウンは自分の息子三人を含む、白人と黒人あわせて22人からなる小人数で、この地を二日間にわたって占領した。
(引用)彼は、自分たちのこの壮挙が奴隷暴動の狼煙となって、全南部の奴隷がいっせいに蜂起することを期待していたのである。しかし、そのことにかんするかぎり、彼の計画は失敗に帰した。・・・・彼の二人の息子は戦死し、ブラウン自身も重傷を負って捕えられた。結局、彼の蜂起は失敗した・・・北部の各地で大衆的な追悼集会が開催され、ソローやエマソンやホイッティアなどの著名な知識人も心からブラウンの死を悼んだが、フランスの作家のヴィクトル・ユゴーが「奴隷制度は如何なるものも消滅する。南部が殺害したのは、ジョン・ブラウンではなくて奴隷制度であった」と、いみじくも予言したように、それから一年数カ月後には、北部の農民や労働者たちは、「ジョン・ブラウンの遺骸は墓の下に朽ちるとも、彼の魂は進軍する」と歌いながら、大挙して奴隷制打倒の戦争に立ち上がっていたのである。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書 p.95>

南北戦争

 アメリカ合衆国北部では次第に、黒人奴隷制に対する非難が高まっていった。それとともに経済政策・貿易政策でも南北の対立は深まってゆき、1860年の大統領選挙で奴隷制拡大反対を掲げた共和党リンカンが当選すると、南部諸州が反発し合衆国から分離しててアメリカ連合国を作り、ついに1861年に南北戦争が勃発した。リンカン自身は奴隷制廃止論者ではなく、奴隷制の拡大に反対したのであり、南部諸州の奴隷制は容認していた。南部との戦争を決意したのは、奴隷解放のための戦いとしてではなく、分離独立を阻止するためであった。

奴隷解放宣言

 戦局が南部有利に進む中、リンカンは大きな転換を試みた。それが1863年1月の奴隷解放宣言であった。これによってリンカンの戦いは奴隷解放を目ざすという大義名分が与えられ、それまで南部支持に傾いていたイギリス・フランスの国際世論も一挙にリンカン支持に転じた。奴隷解放宣言による国際世論の支持とホームステッド法による西部農民の支持によって南北戦争はリンカンの率いる北軍の勝利として終わった。 → イギリスの奴隷制度廃止

(5)アメリカの奴隷解放

南北戦争中に奴隷解放宣言が出され、黒人は人格と自由を獲得したが、その後は差別問題で苦しむこととなった。

 南北戦争中の1863年のアメリカ大統領リンカン奴隷解放宣言は、1865年の憲法修正第13条で確定した。これによってアメリカ合衆国は黒人奴隷制を否定し、黒人奴隷は解放された。さらに戦後の南部の「再建」の過程で、1866年には憲法修正第14条(施行は1868年)で初めて市民権(公民権)を全アメリカ市民に与えたことによって、黒人に対しても法律の前に完全な市民的平等を保証された。また解放された奴隷の生活支援のため、解放奴隷黒人事務局(Freedmen's Bureau )が設立された。また、1870年には憲法修正第15条で黒人投票権が正式に認められ、連邦議会や州議会での選挙権を行使し黒人が議員となることも始まった。
 こうして、法的には奴隷制は否定され、黒人は人格を保証され、自由を獲得した。これは、人類史およびアメリカ合衆国の歴史で重要な変化であり、南部の奴隷制プランテーションは姿を消した。しかし、その理念にもかかわらず、現実にはなおも深刻で多くの黒人差別が残されていた。

制度は廃止されたが・・・

 アメリカの黒人には自由と人格が認められたが、現実的な平等が実現したかというと、そうはならなかった。自由になったとしても経済的な不利は続き、貧困という社会的弱者としての立場は続き、それ故に差別も続いた。また、南部諸州では、1877年に連邦軍の駐留が終わると、南部諸州では財産がないことや識字能力がないことなどを理由にした黒人投票権の制限が州法で為されるようになり、その他黒人取締法が制定されるなど、黒人差別問題が深刻化していくこととなる。
(引用)しかし、経済的な点から見ると、この全般的な奴隷解放は、黒人からプランテイションにおける安定した生活をうばい、周囲のはげしい生存競争に入るだけの準備もなく、しかも隷属を示す皮膚の色をしたまま、ちょうど17世紀の土地を追われたイギリス農民のように、家も道具もたくわえもないままで、かれらをうき世にほうり出したという結果になったのである。<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』P.290>

差別の復活と公民権運動

 さらに1870年代以降、南部の黒人差別が復活するなか、クー=クラックス=クランのような組織的、狂信的な黒人排斥運動も以前よりも強められていった。
 黒人差別に対する闘いもしだいに組織的となり、大きな運動となっていくが、その成果を見るのは第二次世界大戦後、1950年代の公民権運動を経た1960年代、つまりリンカンの奴隷解放宣言から1世紀も過ぎてからのことであった。奴隷解放宣言からちょうど百年後の1963年、キング牧師の指導する公民権運動が盛り上がり、ワシントン大行進が行われた。それを受けて、1964年に公民権法が成立し、法的な黒人の平等化がようやく実現した。しかし、経済的格差からくる差別意識は容易に払拭されず、また黒人側にも力による解決を求める運動も起こり、問題は依然として残っていると言わざるを得ない。
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ノートの参照
8章1節 イ.アメリカ大陸の征服
9章2節 ウ.奴隷貿易と近代分業システムの形成
第12章3節 イ.南北戦争
書籍案内

宮本正興・松田素二編
『新書アフリカ史』
1997 講談社現代新書


























































































































書籍案内

本田創造
『アフリカ黒人の歴史』
1991 新版 岩波新書