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三角貿易(17~18世紀)/大西洋三角貿易

17~18世紀に展開されたイギリスなどによる大西洋での貿易。アフリカから黒人奴隷をアメリカ新大陸・西インド諸島に運び、そこからヨーロッパにタバコや綿花、砂糖などを運んだ。とくにイギリスは三角貿易で得た富を資本として産業革命を推進する財源とした。

17世紀三角貿易
a=タバコ b=綿花 c=砂糖 d=コーヒー
e=雑貨・武器 f=黒人奴隷
 17~18世紀のヨーロッパ諸国が行っていた、ヨーロッパ本土とアメリカ大陸および西インド諸島とアフリカ大陸を三角形に結ぶ、大西洋上の貿易をいう。特にイギリスリヴァプールブリストルから出港した船が工業製品をアフリカに持ってゆき、アフリカから黒人奴隷を積み込んで西インド諸島や北アメリカ大陸に運び、そこからタバコ綿花砂糖などの産物を積み込んでイギリスに帰ってくるという、空荷を無しに貿易船を仕立てて利益を上げようとしたものが有名である。イギリスはこの三角貿易の利益を蓄積し、産業革命を推進したとされている。なお、19世紀のイギリスは、同じ三角貿易(19世紀)を行ったが、これは本国とインド、中国のアジア地域を結びつけるもので、インド産のアヘンを中国にもたらし、中国から茶を本国に運ぶことによって、イギリスの貿易の利益を上げるためのものであった。

三角貿易とイギリス経済

(引用)ニグロ(黒人)奴隷貿易とニグロ奴隷制、それにカリブ海地方における砂糖生産の結合は三角貿易の名で知られている。本国の商品を積んで出港した船は、アフリカ西岸でこの商品を奴隷と交換する。これが三角の第一辺である。第二辺はいわゆる「中間航路」、つまり西アフリカから西インド諸島への奴隷の移送である。最後に、奴隷と交換に受けとった砂糖その他のカリブ海地方の物産を西インド諸島から本国へ持ち帰る航路によって、三角形が完成される。奴隷船貿易だけでは西インド諸島の物産の運搬には不十分だったので、三角貿易の最後の一辺は、本国と西インド諸島間の直接貿易によって補完されていた。
 三角貿易は、本国の物産に西アフリカと西インド諸島の市場を与えた。この市場のお陰で本国の輸出が増え、本国における完全雇用の達成が容易になった。アフリカ西岸で奴隷を購入し、西インド諸島で彼らを使役したことによって、本国の製造業も農業も測り知れないほどの刺激を受けた。たとえば、イギリスの毛織物工業にしてもこの三角貿易に大きく依存していたのである。議会内に設置された1695年の一委員会は、奴隷貿易がイギリス毛織物工業の刺激になっていることを強調している。それに、西インド諸島では毛布用としても羊毛が需要され、プランテーションの奴隷用衣服としても毛織物が需要された。<エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書 2014 「資本主義と奴隷制」p.215-216>
 毛織物生産以外には、鉄(鉄棒という形で)、火器(銃)、真鍮などがイギリスの主要商品とされ、西インド諸島のプランテーションで必要な器材(原糖乾燥用ストーブ、鉄製ローラー、釘、鍋、ヤカンなど)が奴隷と一緒に西インド諸島に運ばれた。

三角貿易とイギリス経済

 三角貿易によって西インド諸島からイギリスにもたらされた商品は、イギリス人の生活を大きく変える生活革命をもたらした。特に砂糖は、アジアからもたらされる紅茶の飲用に書くことができなくなり、イギリスの全階層にその消費が広がっていった。その一方で、西インド諸島による黒人奴隷労働によるプランテーション経営やインドのモノカルチャー化によるその社会の破壊など、深刻すぎる変化をもたらしていることも忘れてはならない。また西インド諸島やアメリカ大陸にアフリカから大量の黒人奴隷がもたらされて、現在につながる黒人差別問題の原因となっている。
 現在は、三角貿易が直接的に18世紀のイギリス産業革命の資本となったことには否定的な見解が主流のようだが、17世紀以降のイギリス経済を奴隷貿易を含む三角貿易が支えていたことは間違いない事実である。

参考 三角貿易とイギリス経済

 「三角貿易」がイギリス資本主義の形成に大きな要因となったことについて、すでに1940年代に西インド出身の歴史家エリック・ウィリアムズは次のように説明している。
(引用)三角貿易は、このため、イギリスの産業にとり一石三鳥のはたらきをするものだった。黒人は、イギリスのマニュファクチャー製品と交換に買い取られ、プランテーションに輸送され、砂糖・綿花・インディゴ・糖蜜その他の熱帯産物を生産したが、イギリスにはこうした熱帯産物の加工処理にあたる新しい産業が造出された。他方、黒人と黒人所有主の生活圏たるプランテーションは、イギリスの工業、ニュー・イングランドの農業およびニューファンウンドランドの漁業にとって、新たな市場を形成した。1750年までには、三角貿易または植民地との直接貿易になんらかの形で結びついていない商業ないし工業都市は、イギリスにはほとんどなくなった。イギリスに流入した利潤は、産業革命の資金需要をまかなう資本蓄積の主要な源泉のひとつとなった。<エリック・ウィリアムズ/山中毅訳『資本主義と奴隷制』初刊1944 ちくま学芸文庫版 2020 p.90>

Episode 三角貿易を始めた男

(引用)・・・1530年、名高い船乗り一族の先祖である懐かしいウィリアム・ホウキンズはプリマスから穀物海岸のセストス河まで航海し、そこで象牙を積み込んだ。そこから更にブラジルへ渡航し、最後に英本国へブラジルの“王様”の一人と共に帰還し、ホワイトホールで“王様”をヘンリ8世に献上した。二年後、ホウキンズはこの航海を繰り返して“王様”をその生まれ故郷へ戻してやった。・・・(1562年頃)かのウィリアム・ホウキンズの息子ジョンがギニア-西印度諸島間の奴隷船航海を始めている。ホウキンズはこうした巡航を三回行い、その最後の航海(1567年)には、当時20歳代半ばの若き怖いもの知らずフランシス・ドレイクも参加していた。」ホーキンズの第三回航海はスペイン船の攻撃を受けて西インド諸島から閉め出され、この航路のイギリス船はしばらく減少するが、ギニアにおける奴隷貿易ではポルトガルの独占に終止符を打つこととなった。<ペンローズ『大航海時代』荒居克己訳 筑摩書房 p.157>

イギリスの覇権

 特にイギリスは1672年に奴隷貿易独占会社である王立アフリカ会社を設立し、フランスとの抗争で北米大陸の植民地を拡大しながら、スペイン継承戦争の講和条約である1713年ユトレヒト条約で、アシエント(スペイン領への黒人奴隷供給契約)を獲得し、新大陸の黒人奴隷貿易を独占した。18世紀には自国製品の武器(銃)や綿織物・雑貨をアフリカには運び、アフリカから黒人奴隷をアメリカ植民地・西インド諸島に送り、アメリカ植民地からはタバコ、西インド諸島からはジャマイカ島などの砂糖コーヒーと言った産物を本国に運び、さらにヨーロッパ各国に供給して大きな利益を上げていた。

黒い荷物と白い荷物

 三角貿易のルートのうち、アフリカ大陸から大西洋を西に渡り新大陸・西インド諸島にむかう中間航路は、“黒い荷物”と言われた黒人奴隷が、時に反乱を起こすなど、危険な航海であった。それに対して西インドからイギリスに向かう航路は“白い荷物”と言われた砂糖が積み荷だったので航海は安全だったという。なお、19世紀のイギリスは、本国とインド、中国を結ぶ三角貿易も展開するようになる。 → 第一帝国

三角貿易によるイギリスの繁栄

 イギリスのリヴァプールはそのような奴隷貿易船の拠点として繁栄した。18世紀後半のイギリスの産業革命期になると、イギリスのリヴァプールやブリストルなどの奴隷貿易で栄えた港の後背地に、木綿工業が発達した。奴隷貿易を中心とした三角貿易の利益が蓄積されて、イギリスの産業革命が生み出されたと言える。しかし、産業革命の進行は、イギリス国内に自由貿易主義を台頭させ、また人道的な面からの黒人奴隷貿易に対する批判が始まり、1807年奴隷貿易禁止に続き、1833年にはイギリス帝国全土で奴隷制度が廃止される。

ラム酒の三角貿易

 また、イギリス領北アメリカのニューイングランドも独自の三角貿易を展開した。その場合は、ラム酒が主要な商品であった。ラム酒がアフリカ西海岸で黒人奴隷と換えられ、黒人奴隷が中間航路で西インド諸島に運ばれ、そこでラム酒の原料の糖蜜に姿を変え、ニューイングランドに運ばれるというものであった。西インド諸島は砂糖や糖蜜、コーヒーなど輸出用嗜好品の生産に特化されたので、急増した黒人奴隷人口の食料生産ができなくなったので、アメリカ大陸から穀物を輸入した。
補足 糖蜜とラム酒 糖蜜はサトウキビを原料として砂糖を精製するときに出る残留物で糖分を多く含んでいる。糖蜜を発酵させ、蒸留したのがラム酒。16世紀に西インド諸島で造られ、大西洋の三角貿易の船乗りが好んで飲むようになった。イギリスでも呑まれるようになり、本国向けのラム酒の蒸留工場がニューイングランドに多く造られるようになった。
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書籍案内

E.ウィリアムズ
中山毅訳
『資本主義と奴隷制』
初刊 1944
ちくま学芸文庫 2020

文庫本化で手近に読めるようになった。西インド諸島出身の黒人歴史家による鋭い指摘に富んだ奴隷貿易論。


エリック=ウィリアムズ
/川北稔訳
『コロンブスからカストロまで』カリブ海域史1942-1969 初刊 1970
岩波現代文庫 2014